シェイクスピア悲劇「オセロ」を翻案したインド映画『Omkara』

■Omkara (監督:ヴィシャール・バールドワージ 2006年インド映画)


シェイクスピア悲劇のひとつ「オセロ」を、現代のインドに舞台を置き換え翻案した作品がこの『Omkara』である。主演はアジャイ・デーヴガン、カリーナー・カプール、サイフ・アリー・カーン、ヴィヴェーク・オベロイ。ちなみにこの作品の監督バールドワージは「マクベス」を翻案した『Maqbool(2003)』、「ハムレット」を翻案した『Haider(2014)』(レビュー)を監督しており、この『Omkara』と併せて「シェイクスピア悲劇映画3部作」を形作っている。ただし「シェイクスピア四大悲劇」のもう1作「リア王」の製作予定はないという。手前味噌となるが、以前オレが「シェイクスピア四大悲劇」を読んだ時の感想を自分のブログのここに上げているので興味のある方はご一読を。

《物語》ギャングのボス、オーミー(アジャイ・デーヴガン)はウッタル・プラデーシュ州の一部の地域を支配するマフィアだ。彼は組織の新たな副官としてケーシュー(ヴィヴェーク・オベロイ)という男を任命するが,、オーミーのもう一人の右腕、ラングラー(サイフ・アリー・カーン)は自分が選ばれなかったことに密かに怒りを燃やす。一方、結婚予定だった女ドリー(カリーナー・カプール)をオーミーに奪われた男、ラージューもまたオーミーに憎しみを抱いていた。ラングラーとラージューはオーミーへの復讐を計画する。それはオーミーに、彼の妻ドリーと、新たな副官ケーシューが密通していると思い込ませることだった。オーミーは罠にはまり、嫉妬と疑心暗鬼の中、妻への憎悪をたぎらせてゆく。

とまあこんな物語なのだが、各所で絶賛されている作品なのにもかかわらず、自分には合わなかった。観ていてうんざりさせられたのだ。以前見た「ハムレット」翻案の同監督作『Haider』もやはり傑作の誉れこそ高い作品だったが、同様にうんざりさせられたことを考えると、ヴィシャール・バールドワージ監督作品自体がオレとは合わないということなのだろう。この『Omkara』と以前観た『Haider』に共通して感じ、そして辟易とさせられたのは、そのべったりと塗り固められた陰鬱さによるものだ。確かに悲劇という物語の性格上、陰鬱になるのは当然のことではある。また、陰鬱であるというだけで作品を否定しているわけではない。そうではなく、バールドワージ監督の演出には、「悲劇のための悲劇」といった予定調和的な性質を感じるのだ。

この作品では登場するどの登場人物もがあらかじめ与えられた役割の通りに動く自動人形でしかなく、人間味に乏しく感情移入する術がない。主人公オーミー演じるアジャイ・デーヴガンは始終三白眼をひん剥いて無表情にぼそぼそ呟くゾンビのようだし、悲劇のヒロイン、ドリーを演じるカリーナー・カプールは最後に待つ死の運命に最初からとりつかれ、その生気の無い演技はまるで木偶人形のようだ。サイフ・アリー・カーンの如き俳優ですら下卑たチンピラ以上の表情を見せない。これらは彼ら演者の演技力のせいではなく、監督の演出がそれしか要求していないからである。つまり「悲劇のための悲劇」として、ただただ悲劇であることに奉仕するために誰もが終始仏頂面で陰気で辛気臭い演技しか要求されなかったのだ。彼らに人間味が無いのは、単なる物語の駒としか扱われていないからだ。

結局バールドワージ監督の演出は、深味を目指しながら陰鬱で、重厚を目指しながら鈍重で、鮮烈を目指しながら粗放なものにしかなっていない。そして物語には陰陰滅滅とした色味がただひとつあるだけで、そこには驚きや共感といった感情の色彩に欠けている。これでは観ていて少しも心を動かされない。ただ確かに、悲劇の悲劇性といったことには特化しているので、「物凄く悲劇ですねえ」ということは間違いなく言える。その部分で凡作でも駄作でも決してないだが、悲劇しか描かれていないという退屈さが個人的につまらなかったのだ。この監督、なにかクリストファー・ノーランと通ずるものを感じるなあ。で、ノーランもイマイチなんだよなあ。

http://www.youtube.com/watch?v=I3sbH2bjZ2w:movie:W620