京極夏彦の『ヒトでなし 金剛界の章』を読んだ。

■ヒトでなし 金剛界の章 / 京極夏彦

ヒトでなし 金剛界の章

理屈も倫理も因果も呑み込む。この書は、「ヒトでなし」の「ヒトでなし」による「ヒトでなし」のための経典である――。娘を亡くし、職も失い、妻にも捨てられた。俺は、ヒトでなしなんだそうだ――。そう呟く男のもとに、一人また一人と破綻者たちが吸い寄せられる。金も、暴力も、死も、罪も――。犯罪小説であり思弁小説であり宗教小説であり諧謔小説であり、そしてなにより前代未聞のエンターテインメント小説!

京極夏彦の小説といえば昔は百鬼夜行シリーズや巷説百物語シリーズをよく読んだものだが、ここ暫く新作小説には触れていなかった。まあ、なんとなく似たようなお話ばかりだったから、というのもあったが、こういった作品の主人公というのがどれもなんだか薄ぼんやりとした生気に乏しい唐変木ばかりで、読んでいて苛つかされ読む気が失せていたというのもあった。
というわけでここの所名前も忘れかけていた京極夏彦の長編小説が書店に出ていたのを見かけ、「またどうせいつも通りなんだろ」と思いつつついつい購入してしまったのである。なぜ購入してしまったのかというと帯に「新シリーズ開幕」と書いてあったからだ。新シリーズ。これはきっと京極が腰を据えてなにやらやらかそうとしていることのように思えたのだ。
本のタイトルは『ヒトでなし』。なんでもかんでも否定形から全てが始まる登場人物ばかり登場する京極らしいタイトルだ。さらに副題というかシリーズの章タイトルとして「金剛界の章」とある。仏教用語のようだがなんだか物々しい。しかし帯の惹句にはあれこれ書いてはいるものの、どういったお話かさっぱり分からない。まあタイトル通り「人でなし」の話ではあるのだろうが、人でなしがいったいなんだというのだろう。殺人鬼でも出て来るのか。
読み始めるとその「人でなし」の主人公がまず登場する。主人公はなぜ「人でなし」なのか。彼は自分の娘を死なせてしまいそのせいで家庭は崩壊、職を失い妻からは三下り半を叩きつけられおまけに家も財産も取られ、無一文の宿無しとなって雨けけぶる深夜の街を自戒に心打ちひしがれながら彷徨い歩いている。そのぐちぐちと自問自答する様はこれまでの京極小説によく登場した「薄ぼんやりとした生気に乏しい唐変木」そのままだ。そして彼は深夜の街である挙動不審の女と出会うのだ。
ああ、こりゃまたババつかんじゃったな、と思ったのである。どんより暗い世界に生きる男がこれまたどんより暗い怪しげな世界に引き摺りこまれるという、京極がこれまで散々書いてきたホラーか何かなんだろう、と思ったのである。ところがである。登場人物が増えてゆくにつれ、物語はどんどんと予想もしなかった展開を迎えてゆくのである。そしてその展開も、その先にどういう結末を予定しているのか皆目見当もつかない流れなのだ。これは新境地ではないか。
この「予想できない展開」が醍醐味の一つだから、オレもあえて内容には触れないが、とりあえずおおまかな登場人物は説明してみる。まず主人公が最初に出会った若い女は自殺志願者だ。なぜ自殺しようとしていたか…は読んでからのお楽しみだ。次に主人公のかつての友人が出て来る。これがベンチャービジネスで一発大儲けしたがその後失敗し今や債権屋に追われ食うや食わずの生活をしている男だ。さらにその債権屋の子分として頭の悪そうなガキが出て来て頭が悪そうに喋る。
彼らは皆脛に傷持つ身であり、それぞれの事情から社会から遊離した存在である。そんな登場人物たちと何もかもを失った「人でなし」の主人公が出会い、そこでどんな化学反応が起こるのか、が今作の見所となるのだ。社会の爪はじき者同士が集まってデカイ犯罪を計画する?いやいやそうじゃない、これがもう全然想像もつかないことなのだ。正直読んでいて「そっちに話持ってくのか!?」と唖然としたぐらいだ。
ひとつだけヒントを出すなら「人でなし」とは「人でないもの」でもある、ということだ。「人でないもの」、それは「人」であることのしがらみから脱したものである。かといって主人公がモンスターになっちゃうSFとかそういうのじゃない。「「人」であることのしがらみから脱したもの」、それに出来ることとは何か?ここから京極一流の詭弁が大展開する。
そうそう、京極ってこういう詭弁が大好きで屁理屈だらけの話がホント得意だったよなあ、とウキウキさせられること必至だ。この「屁理屈の京極」だけは確かに変わってない。だから読んでいてこじつけが強く牽強付会かな、とは思うのだけれども、このこじつけ方がなんだか面白くて楽しくて、屁理屈一本で綱渡りを演じてしまう物語の行く末をなんだかハラハラしながら読んでしまうのだ。しかも、その綱渡りの先にあるものが全く見えないのである。
というわけで京極の新シリーズ第1作、オレはこの作品を諸手を挙げて歓迎する。もう次が読みたくてしょうがない。京極の次作が早く読みたい、とわくわくさせられるのは何年ぶりなんだろう。次が出るまで読み残していた他の京極本を読んで間を持たせようか、そんな感じで京極愛が再燃してしまった作品である。

ヒトでなし 金剛界の章

ヒトでなし 金剛界の章