失脚した独裁者とその孫との逃避行〜映画『独裁者と小さな孫』

■独裁者と小さな孫 (監督:モフセン・マフマルバフ 2014年グルジア/フランス/イギリス/ドイツ映画)


『独裁者と小さな孫』はクーデターにより失墜した独裁者と、彼の連れた小さな孫との逃避行を描いたドラマである。

舞台は東欧と思われる架空の国、そこに人々から「大統領」と呼ばれる独裁者がいた。彼は独裁者の名に漏れず独善と冷徹でもって国を治める暴君であったが、その孫息子にだけは惜しみない愛を注いでいた。そんなある日クーデターが起き、彼を亡き者にせんと迫る革命軍に追われ、愛する孫とたった二人かつて自らの国であった土地を逃げ惑うことになる。そしてそこで彼が目にすることになるのは、圧政による貧困にあえぐ国民たちと、わがもの顔で人々を蹂躙するならず者たち、そして疲弊し荒廃した故国の大地だった。

まず最初に舞台となるのがあくまで架空の国であること、主人公である独裁者は「大統領」と呼ばれるだけの名前の無い男であることから、この物語はひとつの「寓話」であるということが明確にされる。その中で主人公「大統領」は独裁者の「象徴」に過ぎない。歴史の中に"失墜した独裁者"は数多に存在するし、物語に触れている間もヒトラーだのチャウセスクだのフセインだの様々な"失墜した独裁者"を想起させるけれども、実際のところ特定の何者かをモデルにしているといったものではない。

乞食同然の姿に身をやつした「大統領」は己が引き起こした荒廃と貧困にあえぐ国民たちの姿を目の当たりにして苦悶する。苦悶はするが反省はしていない。彼にとって今第一義なのは安全な場所に逃亡することであり己とその孫の命を守ることだけだからだ。腐った魚はどこまでも腐った魚なのだ。そもそもこのドラマの結末に、真正さに目覚め己の過ちを悔やみ国民たちに哀訴する主人公の姿があるとはとても思えないし、もしそうであったら鼻白むだろう。哀れではあるが彼の末路には己の罪業を死をもって購う以外道はないだろう。それではこの物語のラストはいったいどういった選択が成されるのか…というのは書かないが、このラストの在り方こそはこの物語が「寓話」であることの理由だったのかもしれない。

さてそんな物語の中で「小さな孫」はどんな役割だったのだろうか。この孫は幼いころから「大統領」の持つ強大な権力の様を当たり前のものと信じ、そして自らもその権力に庇護された特別な存在であると思いきっている。そしてクーデターによりそれら全てが灰燼に帰したことを全く理解できない。それは「孫」が単に愚かな子供だからだ。この「孫」は純真無垢の象徴としての"子供"というよりは、状況の何も分かっていない"愚か者"として登場するのだ。

しかし、子供であるのなら、愚か者であることは半ば仕方ない。半ば、というのは、この「孫」の存在は多くを語らない「大統領」の心象が具現化した存在であるという見方もできるからなのだ。「大統領」は愚か者である。それは断罪するべき愚かさである。しかしその愚かさは何も知らぬ子供と同等ではないか。その断罪に死は順当なのか。そんな問い掛けと二重構造が『独裁者と小さな孫』にはあるような気がする。

この作品の監督であるイラン出身のモフセン・マフマルバフは、タリバン政権下のアフガニスタンを描く問題作『カンダハール』を撮った監督でもある。この『カンダハール』では戦火により荒廃した大地と原理主義的なイスラム教義により異形と化した社会が登場するが、しかしそういった熾烈で過酷な現実を背景としながら、描かれる世界は異界めいた幻想性すら感じさせた。

この『独裁者と小さな孫』でも、おそらくグルジアでロケされたと思われる幻想性の強いロケーションが幾つか登場する。それはかつてのソ連構成国時代の大仰な建造物であったり、計画経済が失敗した名残りの廃墟の光景であったりする。『カンダハール』がそうであったように、モフセン監督は『独裁者と小さな孫』の中にもまた現実を突き抜けた情景を展開しようとする。モフセン監督が一見政治的な題材を取り扱いながらイデオロギーよりもむしろ寓意にこだわるのは、こういった監督独特の幻視性がそこにあるからのような気がしてならない。