溢れんばかりの暴力と死、そして非道の果てにあるもの〜『ファン・ソロ』

■ファン・ソロ / アレハンドロ・ホドロフスキー、ジョルジュ・ベス

フアン・ソロ

軍事政権下のメキシコ、ウアトゥルコ・シティ。この町で娼婦として働くおかまの小人“おちょこ”は、ある日、尻尾の生えた赤ん坊が捨てられているのを発見する。赤ん坊はフアンと名づけられ、おちょこの元で成長するが、やがて2人の間に別れの時が訪れる。おちょこが形見代わりに残したのは、一丁の拳銃だった。少年フアンはその拳銃で悪ガキどもを従え、裏社会の出世街道を一気に駆け上る。だが、彼を待ち受けていたのは、思いもよらぬ運命のいたずらだった―。主演俳優の死によってお蔵入りとなった、ホドロフスキーによる映画シナリオ。ベスの圧倒的な画力により、バンド・デシネとしてついに日の目を見る!

ホドロフスキー原作によるバンドデシネ『ファン・ソロ』は、またしても呪われた運命の中で奔走する狂った魂の物語である。そしてまた、ホドロフスキーならではの神秘主義に彩られた物語でもある。
舞台は軍政権下のメキシコの都市、その底辺で生きるおかまの小人が捨て子を拾う所から始まる。その赤ん坊にはなんと尻尾が生えていた。ファンと名付けられたその子は狡猾さと非情さを兼ね備えた悪童として育ち、青年となってからはその凶暴さを買われ町を牛耳る悪徳政治家の走狗となって暴力と犯罪の限りを尽くしていた。しかし、政治家の奔放な妻との情事に溺れたファンは遂に仲間を裏切ることになり、さらに彼の恐るべき出生の秘密が明らかにされることとなるのだ。
ホドロフスキー原作によるバンドデシネ作品の多くがそうであるように、この『ファン・ソロ』もまた徹底的なアナーキーとアンモラルで埋め尽くされたピカレスク・ロマンである。主人公ファンはその幼いころから血も涙もない残虐さを持った怪物として登場する。彼の魂にはあらかじめ純真さも清廉さも存在しないのだ。その「非情」はファンが青年となってからあらゆる形となって奔出することになる。彼は相手が女子供であろうと老人であろうと虫けらを踏み潰すように命を奪い、相手が仲間でも歯向かうのなら捻り殺す。全き良心の不在、完璧なる悪、それが彼なのだ。
物語は非情と悪を描くだけでは飽き足らず、そこにあらん限りのアンモラルを持ち込む。それは父親殺しであり兄弟殺しであり母親とのまぐわいであり、いわばカインとアベルかはたまたオイディプスの悲劇を地でゆくかのような陰鬱な冒涜性が薄汚く花開いているのだ。こうして徹底的な暴力と死、そして非道とに彩られながら主人公ファンはありとあらゆるものを暗黒の哄笑の中へ叩き落とす。そしてこれら全てはホドロフスキー独特の「既存の価値観全ての破壊」を目的として用意されたものなのだ。
こうしてなにもかもが崩壊し瓦礫と化し虚無の孔の中に堕とされてゆく物語の果てに、ホドロフスキーはその光景の向こうにある超越した者しか見ることのできない眩いばかりの神秘の顕現を描こうとする。その"無垢"は、この世界を縛り付ける決め事を全て粉塵にまで破壊し尽くした荒野にしか生まれいずることができない"神秘"なのだ。こうしてホドロフスキーは、「破壊と再生の物語」を繰り返し物語るのである。

フアン・ソロ

フアン・ソロ