30年以上積読していた古いSF小説を中心にあれこれ読んでいた。

バーサーカー赤方偏移の仮面 / フレッド・セイバーヘーゲン

バーサーカー赤方偏移の仮面 (ハヤカワ文庫 SF 387)

バーサーカー赤方偏移の仮面 (ハヤカワ文庫 SF 387)

恒星間文明を築き上げた人間のもとに、宇宙の果てから何者かが襲いかかってきた。遥か太古、いずことも知れぬ星域で滅び去った星間帝国が残した遺産、自己増殖と進化を繰り返し、生あるものをすべて滅ぼすことを至上命令としてプログラムされ、何度撃退されても再び襲来する、死そのもののような無人の殺戮機械軍団――それがバーサーカーである。人類はこのバーサーカーと遭遇したのだ。あるときは巨大無人戦艦が、あるときは潜入用の小型機械が…あらゆる姿で襲来するバーサーカーに対し、あるときは力押しの正面決戦で、あるときは知略を尽くした頭脳戦で…あらゆる様式のバーサーカーと人類の存亡を賭けた闘争が繰り広げられる。

SF読み始めの中学生の頃、早川であれば兎に角「青背SF」の単行本のほうが"高級"で、「白背SF」はそれよりランクが落ちる作品だと思い込み、「青背SF」ばかり読んでいた。ガキの思い込みというのはホントにしょうもない。そんなわけで評判が高くても「白背SF」はたいてい切って捨てていたのだ。フレッド・セイバーヘーゲンのバーサーカー・シリーズもそんな憂き目にあった一作で、粗筋を読んでとても面白そうだったのに結局読むことはなかったのだ。しかし何年か前、何かのアンソロジーでセイバーヘーゲンの短編を読み、それはバーサーカー・シリーズではなかったけれども、独特の鋭利な視点に驚かされ、この作家の才能を知ったのだ。という訳でその存在を知りながら実に30年余り経ちやっと読んだ『バーサーカー赤方偏移の仮面』、いやあ面白かった!いわゆる連作短編になっているのだが、1作1作がバラエティに富み、薄氷を踏むような冷徹なドラマがあるかと思うと熾烈な宇宙戦争があり、なんとコメディ・タッチの短編まである始末だ。そしてもちろんそれぞれの完成度も高い。苦節(?)30年、読んでよかった古典SFだった。ちなみに最近新装版が出たが、もちろん昔の表紙の古本を買って読んだ!

テクニカラー・タイムマシン / ハリイ・ハリスン

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倒産寸前の映画会社クライマックスは、わらににすがる心境で市井の科学者の手になるタイムマシンにとびついた。ロケ隊を11世紀に送りこみ、大スペクタクル大迫力ヴァイキング映画を製作しようというのだ。しかしいざ撮影を開始するや見込み違いが続出、本物のヴァイキングに襲撃されるは、主演男優は負傷するは、窮余の一策にと現地人を代役に仕立てれば濡れ場で本番をやらかす始末。しかもあれやこれやが重なって完成予定日にまにあわせるのは絶望的、クライマックス映画社の命運ここに尽きたかに見えたが――才人ハリスンの放つ軽妙洒脱な傑作ユーモアSF!

当時中学生ぐらいだった自分が初めて買った早川書房のSF文庫は、C.L.ムーアの『大宇宙の魔女』とハリイ・ハリスンのこの作品だったような気がする。なぜこれらの作品を買ったのかというと、『大宇宙の魔女』は表紙が松本零士で、この作品は表紙がモンキー・パンチだったからである。中学生なんてそんなものである。ただ、『大宇宙の魔女』は読んだけれども、この作品は長らく積読した挙句結局読むことがなかった。冒頭まで読んだが取っ付き難くて止めてしまったのである。しかしあれから30年以上(ひょっとしたら40年近く)経って改めて読み始めたところ、これが、非常に面白い。タイムマシンでヴァイキングのいる時代にいって映画を撮っちゃおう!という内容ではあるが、そこに下世話な映画ビジネスの問題が絡んでくるのだ。子供の頃のオレにはこの「下世話な(映画)ビジネス」という部分が理解できなかったのだが、いい大人になった今だと、十分理解できるうえに、その「下世話さ」こそが面白く感じるのだ。大人ってなってみるもんですね。この作品自体1967年発表という50年以上前の作品なのにもかかわらず、今でも味わい深く読むことができる作品だ。

■タイム・マシン 他九篇 / H.G.ウェルズ

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

80万年後の世界からもどってきた時間旅行家が見た人類の未来はいかなるものであったか。衰退した未来社会を描きだした「タイム・マシン」は、進歩の果てにやってくる人類の破滅と地球の終焉をテーマとしたSF不朽の古典である。他に「水晶の卵」等9篇収録。

H.G.ウェルズの『タイム・マシン』こそ最も「誰もが知る有名な作品で内容も全部知っているが読んだことのない小説」に挙げられるのではないか(あとジュール・ベルヌ作品も実はちゃんと読んでない)。しかし先日1960年製作のジョージ・パル監督版の映画『タイム・マシン』を視聴し、「夢の機械で時間旅行をする冒険SF」というだけではなく、様々な寓意が込められた物語であることを知り(映画版には「戦争が人類にもたらす影」が如実に描かれ、当時の冷戦構造が伺えた)、原作をもう一度きちんと読んでみようと思ったのである。そしてこの原作でも、「イギリス階級社会をグロテスクに戯画化」しているという寓意が込められていたことを知り、断然昂奮して読むことができた。そもそもウェルズは小説家にとどまらず多岐に渡る分野で活躍した才人であり、この物語も一人の科学合理主義的社会主義者として人類の未来を暗く予見しつつ描きあげた物語だったのだろう。何より後半の映画版にない「超未来の黄昏の地球」の荒涼とした描写が、今読んでも鬼気迫る情景となって描かれているのだ。しかもこれは筒井康隆の長編『幻想の未来』の元ネタではないか。大いなるペシミズムに彩られたこの作品は、まさしく今読んでも全く色褪せないSF小説の金字塔だということができる。また、自分が読んだのは他9篇の短編を盛り込んだ岩波文庫版だったのだが、それら他の短編もどれもがSFアイディアの原点でありファンタジィ小説であり、これらがやはりどれも読み応えがあるのだ。古典の持つ強烈な輝きを思い知らされた作品集だった。

■黒い海岸の女王 / ロバート・E・ハワード

黒い海岸の女王<新訂版コナン全集1> (創元推理文庫)

黒い海岸の女王<新訂版コナン全集1> (創元推理文庫)

1万2千年前、アトランティスが海中に没したのち、現存する歴史が記されるまでの空白期に、ハイボリア時代なるものが存在した。この時期の伝承を伝える年代記は、キンメリア生まれの英雄コナンの事跡を記している―30歳で夭折した天才作家が創造し、ヒロイック・ファンタジーの源流となった傑作シリーズを、著者のオリジナル原稿にもとづいた校訂のもと全6巻に集成して贈る。

SFを読み始めのころはヒロイック・ファンタジーを根拠もなく「下らないもの」と思い込んでいた。荒唐無稽なSF作品を好んでいたくせにヒロイック・ファンタジーを荒唐無稽だ、とバカにしていたのである。中学生にありがちな偏見だった。しかし数年前ハワードのコナン・シリーズの短編をたまたま読む機会があり、その文章の美麗さとダークなファンタジー風味に度肝を抜かしてしまった。この『黒い海岸の女王』はその時に「ハワードはきちんと読むべきだ」と思い購入したまま積読していた1冊で、やっと手を付けたというわけである。積読本は永遠に手にされない、なんてセオリーがあるらしいがそれは嘘だ。オレはきちんと読んだ。そして初めて短編を読んだ時の衝撃そのままにこの本を読み終わることが出来た。やはりハワードは語彙豊かな詩的な文章が素晴らしい。多分翻訳も優れているのだろう。ハワードはあのラブクラフトと共にパルプ雑誌「ウィアード・テイルズ」に連載していたということだが、個人的にはラブクラフトよりも断然完成度が高くさらに古びない物語を書いていると思うし、ラブクラフト程度に今も読み継がれるべき作家なのではないかと感じる。そんなわけで全5巻のコナン全集を読もうと思ったのだが、第3巻がずっと品切れで入手できないんだよね…。

■竜を駆る種族 / ジャック・ヴァンス

竜を駆る種族 (ハヤカワ文庫SF)

竜を駆る種族 (ハヤカワ文庫SF)

はるかな未来、人類最後の生き残りが住むさいはての惑星エーリスでは、風雲急を告げていた。バンベック一族の住むバンベック平を幸いの谷の一族カーコロが狙っていたのだ。異星の爬虫類種族を育て、さまざまな竜―阿修羅や金剛や一角竜から成る軍隊に仕立てたバンベックとカーコロは、まさに一触即発の状況。しかも、エーリスを狙う爬虫類型の異星人ベイシックが襲来しようとしていたのだ!名匠のヒューゴー賞受賞作。

ジャック・ヴァンスは本国アメリカでは人気の高いSF作家らしいのだが、日本では今一つ知名度が低いのではないか。自分基準だが。しかし数年前に国書から出ていた短編集『奇跡なす者たち』を読みその煌びやかな異世界描写に圧倒されてしまった。その時いつか読もうと思っていたのがこの長編『竜を駆る種族』だったという訳だ。物語はタイトル通り"竜を駆る"二つの種族が登場しひとつの惑星で対立しあっていた、というファンタジー的な導入部から始まりながら、そこから異星人の侵略というSF展開が待ち受ける。この折衷具合は「ああ、アメリカのSFファンが好きそうだよなあ」と思わせるが、もちろん日本人のオレが読んでも十分面白い。思えば今のSFはなにかと面倒臭くなって、こういった想像力一発で書き上げられた物語というのは成立が難しいのかもしれない。見たこともないような異世界で自由に遊ぶ、そんなSF本来の楽しみがまだ存在していた時代の貴重なSF作品だということも言える。

アインシュタイン交点 / サミュエル・R・ディレイニー

アインシュタイン交点 (ハヤカワ文庫SF)

アインシュタイン交点 (ハヤカワ文庫SF)

遠未来の地球。人類はいずこへか消え失せ、代わりに住みついた異星生物が懸命に文明を再建しようとしていた。ロービーは人の心を音楽で奏でることができる不思議な青年。恋人の死を契機に旅に出た彼は古代のコンピュータ、ドラゴン使い、海から来た暗殺者など様々な存在との出会いを経て、世界の大いなる謎を解き明かしてゆく…幾層ものメタファーやシンボルを重ねて華麗な神話宇宙を構築し、ネビュラ賞に輝く幻の名作。

ディレイニーとは相性が悪い。最初に読んだのは『ノヴァ』だが、悪くは無いにしてもなぜこんなに評価の高い作家なのかピンと来なくて、次に『ダールゲレン』を読んだが酷い作品だと思った。物凄い才能の持ち主だということをとかく言われるのだが自分には全くそれが伝わらない。原語で読まないとその文章の妙味を味わえない作家なのかもしれないが、だとしたら分からなくてもしょうがない。という訳でディレイニーはもう読まなくていい作家だと思ってたが、最近短編集『ドリフトグラス』が出てちょっと話題になっていて、でも読んでもやっぱりつまらないんだろうなあと思い、なんだかそれが悔しくて代わりにこの『アインシュタイン交点』を読んだというわけだ。そしてやっぱりピンとこないしたいした面白くない。ううむどうしたものだろう。

■非(ナル)Aの世界 / A・E・ヴァン・ヴォークト

非(ナル)Aの世界 (創元SF文庫)

非(ナル)Aの世界 (創元SF文庫)

時は二五六〇年、宇宙はいくつもの帝国から成り、「銀河系連盟」が結成されている。地球には〈ゲーム機械〉があり、それがつかさどるゲームに合格した人が政府の要職につき、あるいは金星行きの資格を獲得する。〈非A〉人ギルバート・ゴッセンは〈機械〉市にやってきたが、いつのまにか銀河系的規模の大陰謀に巻きこまれてしまったのである。

オールドSFファンとしてはヴォークトも読んでいなければならない作家なのだろうが、自分は大昔に『宇宙船ビーグル号』を読んだだけで、その時ですら「古臭いな」と思ったぐらいである(当時の自分にとっても宇宙SFは既にラリイ・ニーヴンだった)。この『非(ナル)Aの世界』もやはりどうにも古臭く、それほど楽しめはしなかったのだけれども、同じところをぐるぐる回っているだけのプロットや、奇妙に偏執的な文章、人間味の薄い登場人物、そして異様な世界観が頭に残る作品であるのも確かである。実はP.K.ディックがヴォークトに心酔していたということをこの小説の解説で初めて知ったのだが、確かにディック的な不条理めいた展開がこの物語にはある。そういった部分を見出せた部分で有意義なSF体験だった。

■白夜 / ドフトエフスキー

白夜 (角川文庫クラシックス)

白夜 (角川文庫クラシックス)

ドストエフスキーには過酷な眼で人間性の本性を凝視する一方、感傷的夢想家の一面がある。ペテルブルクに住む貧しいインテリ青年の孤独と空想の生活に、白夜の神秘に包まれたひとりの少女が姿を現わし夢のような淡い恋心が芽生え始める頃、この幻はもろくもくずれ去ってしまう。一八四八年に発表の愛すべき短編である。

この間観たインド映画『Saawariya』がドフトエフスキーのこの短編作品を原作にしているというので、本も薄くてすぐ読めそうだったから手にしてみた。まあしかし主人公男子があまりにもウブな上に出会ったばかりの女子に自分のことばぁ〜っかり語りすぎで、普通に「この恋愛はダメだろ…」と思わせてくれる。おまけに相手の女子が不用意に思わせぶりで、「ああ〜童貞君がこんな女と出会ったら勘違い地獄必至だよね〜」と遠い日の我と我が身を鑑みつつ切ない郷愁に耽っていたのであった。ってかこの短編、初ドフトエフスキーなんですけど、こんなまだるっこしいの?