スタニスワフ・レムの『泰平ヨンの未来学会議』を読んだ

泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

地球の人口問題解決の討議のため開催される世界未来学会議に出席せんと、コスタリカを訪れた泰平ヨン。ところが、会議の最中にテロ事件が勃発。ヨンたちは、鎮圧のために軍が投下した爆弾の幻覚薬物を吸ってしまう。かくしてヨンは奇妙な未来世界へと紛れ込む…。レムがブラックな笑いでドラッグに満ちた世界を描きだす、異色のユートピアSF。

戦場でワルツを』(レヴュー)のアリ・フォルマン監督が『コングレス未来学会議』(公式サイト)のタイトルで映画化したことで急遽改訳版がリリースされたスタニスワフ・レムの『泰平ヨンの未来学会議』を読んだ。ちなみに映画のほうは未見。
レムは『ソラリス』『大失敗』など硬派な長編SFを執筆する一方、「泰平ヨン」「ロボット宙道士トルルとクラパウチュス」「宇宙飛行士ピルクス」といった主人公が活躍する短編・中編SFを多く残している。「泰平ヨン」はその中でも皮肉の効いた文明批判を得意とするシリーズで、作家レムのもう一つの顔がうかがわれる内容となっている。
物語はざっとこんな感じ:コスタリカで開かれた世界未来学会議に出席した泰平ヨンをテロ事件が襲い、攻撃に使用された幻覚物質により朦朧としているうちにコールドスリープが成され未来へと飛ばされる。そして目覚めた泰平ヨンが見たものは、広範な薬物の使用により理想世界へと変貌を遂げた社会だったのだ。
『泰平ヨンの未来学会議』の物語は実にハチャメチャだ。冒頭、コスタリカにおける「未来学会議」の発言者たちは「お前らはイグノーベル賞を目指しているのか」と思わせるような怪しげな論理を展開し、同じホテルで開催される他の会議も訳の分からない同好会の連中ばかりが集まり狼藉を働き続け、続くテロの描写では阿鼻叫喚というよりは単なるキチガイ騒ぎみたいなドタバタが演じられるのだ。そして未来へと旅立った泰平ヨンは、人間の様々な思考・感情・行動・社会生活に対し微に入り細にわたって用意された膨大な数の薬物と、その薬物の作用により全てが完璧にコントロールされた理想社会を目の当たりにすることになるのだ。
この物語の真骨頂となるのは作品内に登場するこれら薬物の、馬鹿馬鹿しいネーミングの数々だろう。ココロガワリンだのオチツカセルニンだのアンタナンカキラインだのバショヒロゲールだのタブラカシンだの、その効用がそのまま名前になった薬剤のオンパレードである。宗教系の薬剤だけでもキリストジンだのゾロアスタルだのブッジンだのイスラミンだのといったネーミングが弾丸のように連発され、「よく考えるよなあ」と思うのと同時に「アホだよなあ」という気にしみじみさせるのだ。それと同時に、訳者の方の並々ならぬ翻訳技量とセンス、そしてそのご苦労に感嘆させられる。
これらを通して描かれるのは人間の思考と行動が全て薬物でコントロールが可能であるという論理と、全てが完璧にコントロールされるならそこに完璧な理想社会が生まれるといった結論である。そしてこれは全てが皮肉である。皮肉であると同時にひとつのペシミズムですらあると思う。
確かに、人の行動の全ては脳で活動する微量な化学物質の作用によって決定される。感情も思考も脳内酵素の働き一つで変化する。作品内でも「つまり今あるものはすべて、脳細胞の表面で水素イオンの濃度が変化した結果に過ぎません(p158)」という記述がされている。人間の精神的ホメオスタシス向精神薬で平衡させるのは現代の精神医学でも成されていることだ。これは確かに間違ってはいない。しかし実のところ、脳内物質が意識と行動を決定するだけなのではなく、意識と行動が脳内物質を誘発させるものなのではないのか。自分はこの辺の脳神経学をきちんと知っているわけではないので間違ったことを言っているのかもしれないが、少なくともこの作品では、「こうあるべし」という意思の力ではなく、薬物という外的物質的要因だけで決定される世界の空しさを描いているように思う。それがこの作品に通底するペシミズムなのだと思う。そしてこの作品から立ち現れる「皮肉」の本質は、別に薬物の蔓延を揶揄したものでは決してなく、むしろ自らの行動の規範を外的なものに委ねてしまう、その「意思なき行動」に対するものではないのだろうか。