イーガン新作『ゼンデギ』は「なんだかなあ」と思っちゃうような出来栄えだったな

■ゼンデギ / グレッグ・イーガン

ゼンデギ (ハヤカワ文庫SF)

記者のマーティンは、イランで歴史的な政権交代の場に居合わせ、技術が人々を解放する力を実感する。15年後、余命を宣告された彼は、残される幼い息子を案じ、ヴァーチャルリアリティ・システム“ゼンデギ”の開発者ナシムに接触する。彼女の開発した脳スキャン応用技術を用いて、“ゼンデギ”内部に“ヴァーチャル・マーティン”を作り、死後も息子を導いていきたいと考えたのだが…。現代SF界を代表する作家の意欲作。

グレッグ・イーガンの新刊が出た!ということで早速買ってワクワクしつつ読んだのだが…うーん…これ失敗作じゃね?

お話は主人公であるオーストラリア人記者マーティンがイランで政治的混乱を取材するところから始まるわけだ。で、現地の女性と結婚して子をもうけるが、奥さんが死んじゃって父親だけで子供を育てることになっちゃうんだな。しかし本人も癌に罹っちゃって、残された子供がきちんと育ってくれるんだろうか…と途方に暮れるわけよ。そこで目を付けたのがこの頃流行っていたヴァーチャルリアリティ・システム「ゼンデギ」。これは言ってみりゃあVRアミューズメント施設なわけなんだが、この「ゼンデギ」でいつも親子は遊んでいたんだよ。マーティンは「ゼンデギ」開発者のナシムって女性に、自分のヴァーチャル人格を作成して「ゼンデギ」に存在させてくれないか、と頼み込むわけなんだな。

こういった話なんだが、ごく近い近未来を舞台にしているものだから、よくあるSF作品みたいに「はーい本人と寸分違わぬVR人格一丁出来上がり!」なーんて簡単なことにはならず、むしろVR人格の作成がまだまだ手探りの状態であり、それが可能かどうかも分からない、そしてもしできるとしたらどこまでが可能なのか、ということを模索する人々の物語になっているんだ。こういった科学的な側面は相変わらずよく書けてると思うし、ヴァーチャル人格なるものが政治的宗教的にどんな反発を受けるのか?という考察も実に現実的な切り口を見せていて、この辺に「近未来」を舞台設定に選んだことがきちんと生きているんだ。

けれども、オレが「なんだかなあ」思ったのは、このアイディアとこの物語で、この長さはないんじゃない?ってことでさ。このアイディアなら短編でも十分だし、そこに物語の中心となる親子の問題を絡めたとしてもこの作品の半分でもいいんじゃないかな。なにしろまず、第1章が、まるまる必要ない。物語の核心に触れるのもこの長い物語の半分を過ぎてからで、そこまでがまた長い。それと、舞台がイランである必然性があんまりない。これ、アメリカやオーストラリアが舞台でも成立しちゃうお話じゃないですか。原理主義的宗教からの横槍というのが必要だとしてもそれがイスラム教である必要はないしね。

もうひとつ「なんだかなあ」と思ったのは、物語の中心となるVRゲーム「ゼンデギ」の設定が、どうも今一つに思えるんだよなあ。オレは単純にアミューズメント施設って捉えたけど、プレイするための手間や占有時間の長さを考えると現行のゲーセンより敷居が高く感じるし、頻繁に出かけてプレイするって感じがしないんだよな。それと、主人公は子供の成長を見守る為この「ゼンデギ」に自らのVR人格を置こうとするけど、一個のゲームの流行って一人の子供が大きくなるまで続くんだろうか。というか、子供の成長を見守るのにゲーム世界ってのもどうなのかな。

一番「なんだかなあ」と思ったのは主題である父が子にVR人格を残そうとするって部分で、まあ愛する子供の成長を手助けしたいというのは分かるけれども、「例え自分がいなくても子供はコントロールしたい」って親のエゴのような気がするんだよな。親は無くとも子は育つぞ。逆に子供の側からしてみると、小さな頃ならまだしも物心付いてから親にああだこうだ言われるのはあんまり面白いことじゃないんじゃないのか。ましてやゲームやってる最中だぞ。そもそもそんな年齢になって親の出てくるゲームなんざしたくないよな。これがゲームじゃなくVR人格付き位牌とかだったら困ったときちょっと相談とかできそうだよな。ディックの小説にそんなのが出てきた覚えがある。

そんなわけでいろいろと「なんだかなあ」と思ったイーガンの新作であった。これ煎じ詰めるとVRゲームっていう設定にノレなかったってことなんだろうなあ。

ゼンデギ (ハヤカワ文庫SF)

ゼンデギ (ハヤカワ文庫SF)