カトリック教会が支配するもうひとつの世界のイギリスを描く不朽の名作〜『パヴァーヌ』

パヴァーヌ / キース・ロバーツ

パヴァーヌ (ちくま文庫)

1588年、英国女王エリザベス1世暗殺。混乱に乗じたスペイン無敵艦隊が英国本土に侵攻。英国は欧州世界と共にローマ法王支配下に入る。プロテスタントによる宗教改革は鎮圧され―。20世紀、法王庁の下で科学は弾圧され、蒸気機関車だけが発達。その閉ざされた「もう一つの欧州」でついに反乱の火の手が上がる。高い完成度と圧到的なリアリティを備えた不朽の名作。

今ある世界はたまたまこうなっただけで、たったひとつのきっかけが違っていたら、全く別の世界になっていたかもしれない。例えば第2次世界大戦で枢軸軍が勝利を収めたもうひとつの世界を描いたP・K・ディックの『高い城の男』のように。歴史の流れにおけるある重要な局面で、現実にあったこととは違う事態が起こったことにより、現実とは違うもう一つの歴史を歩んでしまった世界。「歴史改変SF」と呼ばれるこれらのサブジャンル作品は、歴史の「if」を描きながら起こりえたかもしれない世界を夢想する思考実験的な側面を持っている。

1987年、スコットランド女王メアリ・スチュアートエリザベス1世の暗殺を企てるが、阻止されて未遂に終わる。1988年、アルマダの海戦においてスペイン無敵艦隊イングランドに敗北する。これらは現実にあった出来事だ。しかし、もしもエリザベス女王暗殺が成功し、スペイン無敵艦隊イングランドを破っていたら?キース・ロバーツの『パヴァーヌ』は、こうして別の歴史を歩んでしまったもうひとつの世界の、20世紀イギリスの様相を描く作品である。

この物語においてはローマ・カトリック教会が世界全てを席巻し、その原理主義的教義が唯一の真実となり、科学の発展は阻害され、異端として排斥されている。それにより産業革命は起こらず、人々は電力発電の恩恵を受けることなく、蒸気機関による動力のみを頼りにし、20世紀にありながら退行した技術レベルの中で暮らすことを余儀なくされているのだ。その弾圧と窮乏の閉塞感の中で、遂にイギリス辺境から反乱の狼煙が上がる、というのが『パヴァーヌ』の流れとなる。

パヴァーヌ』は8章で構成された物語だ。

序章…『パヴァーヌ』の世界が現実とは違った歴史を辿った大元の出来事が語られる。
第一旋律/レディ・マーガレット…〈レディ・マーガレット〉と名付けられた無線路機関車の操車手・ジェシーの物語。この章で退行したテクノロジーと近代以前の生活しか存在しない『パヴァーヌ』世界の一端が明らかにされる。
第二旋律/信号手…『パヴァーヌ』世界における通信手段はヨーロッパ中に網羅された高いやぐらの上に立つ〈信号手〉によるものしか存在しない。この章は〈信号手〉レイフを通じ彼らの厳しい職務の様子を描く。
第三旋律/白い船…貧しい漁村の娘ベッキーの夢は水平線の向こうに見える白い船に乗ってここではないどこかに旅立つことだった。『パヴァーヌ』世界の閉塞感を暗く寒々しい筆致で描いている。
第四旋律/ジョン修道士…優れた美術の才能を法王庁に買われ修道士ジョンは世界の中心ローマへと赴く。そこでジョンが目にしたおぞましい現実。旧態然としたカトリック教会がどのように人々を支配し弾圧しているのかがここで明らかになってゆく。
第五旋律/雲の上の人々…第一旋律登場のジェシーはイギリス西部の輸送業を一手に握る大会社社長となる。その娘マーガレットは貴族の男ロバートの求愛を受けるが身分の違いを気にしていた。『パヴァーヌ』世界の上流階級を描く一章。
第六旋律/コーフ・ゲートの城…ローマから法外な年貢を要求され、コーフ・ゲート城城主マーガレットは孤立無援の中反乱の狼煙を上げる。それは世界全てを敵に回した戦いの始まりだった。
終楽章…そして世界は…。

パヴァーヌ』の主な舞台はイギリスに限定される。改変された世界において、ヨーロッパやアメリカがどのような歴史を辿ったのかはほんの少ししか記述されず、またアジアやアフリカがどのような世界になったのかは明らかにされていない。そういった意味で、この『パヴァーヌ』は「もうひとつのイギリス」をつきつめながら描いた作品だということができる。

この作品において特筆すべきは、そのイギリスの陰鬱なる自然の光景だろう。季節を通じて暗く寒々しく、冬の厳しさは言うに及ばず、鬱蒼たる草原と原野が広がり、海の色も空の色も鉛色に染まり、そこに身を切るような風だけが吹きすさぶのだ。それはイギリスの原風景とも呼ぶべき光景なのだろう。そしてこの暗澹たる曠野の果てから、キリスト教以前に存在していた「古い人々」の伝説と存在が立ち現われる。この「古い人々」の記述により、物語はファンタジー的な要素が加味されるのだが、それは空想の存在というよりも、キリスト教支配との対立的な歴史の一端として語られるのだ。この『パヴァーヌ』は歴史改変SFとかスチームパンク系の扱いをされているが、そういった部分で、むしろハイファンタジーに近いのではないかという気もするのだ。

そしてもうひとつの読みどころは、そんな厳しいイギリスの大地に暮らす人々の姿を描く瑞々しい筆致だろう。息苦しい閉塞感と困窮の中で、それでも彼らは人として生きようとし、自分らしくありたいと願う。これら強烈な生へ希求が、『パヴァーヌ』の物語に生々しい迫真性を与えているのだ。特にクライマックスである『第六旋律/コーフ・ゲートの城』では、世界の中心であるローマへ反旗を翻し、世界全てを敵に回しながら背水の陣を敷くコーフ・ゲート城城主マーガレットの、革命への悲願がどこまでも切なく読む者の心を締め付けるのだ。『パヴァーヌ』は全体的にスロースターターとでも呼ぶべきゆっくりとした展開を見せるため、最初はこの物語がどこへ向かおうとしているのか戸惑うが、このクライマックスへ行き当った時に、まさしくこの作品が不朽の名作と呼ぶべき作品であると確信するだろう。英国幻想小説のひとつの到達点とも言える名作であることは間違いない。

パヴァーヌ (ちくま文庫)

パヴァーヌ (ちくま文庫)