神と宗教の本質に迫る2014年度インド映画最大のヒット作『pk』を君は観たか?

■pk (監督:ラージクマール・ヒラーニ 2014年インド映画)

I.

『きっと、うまくいく』のラージクマール・ヒラーニ監督、アーミル・カーン主演により2014年12月に公開されたインド映画作品『pk』は、最終的にインドで2014年最大のヒットを記録した作品である。『pk』はコミカルで親しみやすく、しかも十分に知的な作品であり、アーミル・カーンの演技はまたしても恐るべき完璧さを見せる。これはインド映画の到達した最新型スタイルの娯楽作であり、世界的な視野から見ても堂々たる完成度を誇る映画作品であり、しかもインド映画でなければ描けなかった作品だろう。そしてそのテーマは「神と宗教」だ。

物語はインドの見果てぬ荒野に、一人の裸の男(アーミル・カーン)が出現するところから始まる。彼は人の道理や社会の常識に極めて疎い、ある種の「白痴」的な存在だ。のちに「pk(ピーケイ)」と呼ばれることになるこの男は、あるものを探している。それを見つけ出す過程で、彼は人々の願いを聞き届けるという【宗教】の存在を知る。彼は様々な宗教を信仰しようとするが、その都度ややこしいトラブルに見舞われ、そして一向に願いは聞き届けられない。そこで彼は一つの結論に達する。神はいるが、現在行方不明となっているのだと。そんな彼にTVリポーターのジャグ(アヌーシュカ・シャルマー)は興味を持ち、「宗教とは何か?」を検証するTV番組に出演させる。しかし、そんなpkを面白く思わない新興宗教教祖がいたのだ。

映画『pk』の真にユニークな部分は物語のそもそもの立脚点だ。それは既にオープニングで語られるのだが、これが非常に驚かされるものであるが為に、ここで種明かしをすることができないのだ。なぜなら語ることで陳腐化してしまうからである。しかしこれがラストで語られればなおさら陳腐化するだろう。まずこのオープニングで驚くことによって物語にすんなりと入っていくことができるのである。ラストを明かせない物語、というのは多々あるが、オープニングが明かせない物語、という部分で『pk』は既にしてユニークな作品なのだ。

II.


『pk』は斬新な切り口で「神と宗教」という人間/人類の持つ本質的な命題に対し、時に面白おかしく、時に鋭く疑問を投げかけ、解答を模索する。しかしそんな堅苦しくなりがちなテーマをアーミル・カーン演じる奇矯なキャラクターの目を通して分かり易く噛み砕いてゆく。

アーミル演じるpkの姿はどう見ても奇妙だ。両耳がダンボのように大きく、いつもぎょろぎょろと目の玉をひん剥き、変な姿勢でピョコピョコと歩く。この歩き方から彼はヒンディー語で「Tipsy(ほろ酔い、千鳥足)」という意味の「pee-kay=pk」というニックネームが付けられる。こんなpkのコミカルな動き、彼のトンチンカンさから巻き起こされるドタバタの大騒動は、映画をとても愉快で豊かなものにし、観る者は誰もが彼のとりこになってしまうこと請け合いだ。そして彼がいつも着ている奇抜な柄のファッションも目を楽しませるものになっているだろう。

何故彼は神を探すのか?それは願いを聞き届けるものであると信じているからである。しかし、神への願いは往々にして聞き届けられることがない。では何故願いを聞き届けるはずの神はその願いを聞き届けないのか?それは神がいないからなのか?では人々が信じている神とその宗教とはなんなのだろう?願いを聞き届けない神と宗教を何故人は信じ続けるのだろう?そしてpkはある結論に辿り着く。神はおり、その神意はあるにもかかわらず、それは混線した電話のように間違って伝えられていると。では、その正しい神意は、今どこにあるのか?

こうして展開してゆくこの物語は、思考の実験であり、神の探索であり、人とその生の核心へとどこまでも迫ってゆく、めくるめくような【驚き】と【発見】に満ち溢れた【冒険】として描かれてゆくのである。そしてそれが、小難しい理屈をこねた晦渋なものではなく、宗教と神にまつわる抹香臭いお説教に至ることもなく、一つ一つの疑問と概念を次々とクリアにさせ、それによる知的興奮と認識の刷新に心躍らされるエンターティンメント作品として仕上がっているのだ。pkは無垢であり無知であるがゆえにそのまなざしはどこまでも澄み渡っており、彼の突きつける素朴な疑問に観るものはその都度立ち止まって考えさせられてしまう。これは様々な宗教が混在するインドでしか実現できなかった作品であると同時に、全ての宗教性に言及しているがゆえに大いなる普遍性を獲得しているという稀有な作品なのだ。

III.


pkの「神様探し」はとある架空のインチキ宗教へとたどり着くが、それはその個別なインチキ宗教を検証し糾弾するためというよりも、そもそもインチキに至らざるを得ない宗教そのものを体現させようとしているのだ。

しかし追及された側の宗教団体の巧妙な論理のすり替えによる反論がいちいちもっともらしくて面白い。言うなれば信仰に対する認識が実はこういった論理のすり替え、錯誤、そして思い込みで成り立っている、ということを匂わせる。そしてその後に続くのは、そういった【誤認】がどういった形で成り立つものであるかを検証し、人間の【自己認識】の曖昧さを明らかにする。

こういった宗教と神を検証するインドの娯楽映画作品としては『OMG Oh My God』が挙げられ、『pk』はエピソードの積み上げ方にそれと類似した部分が伺えるが、『OMG』が宗教の真の在り方とは何か、という宗教そのものが既に先験的な概念であるとして物語を組み立てていた部分を、この『pk』ではさらに一歩踏み込んで、「宗教は何故成り立ってしまうのだろう?」というその前段階から検証する行為から物語を構築しているのだ。ただしこの作品の弱点を一つ挙げるなら、最終的に宗教の存在をつまびらかに対象化することなく新興宗教教祖とのディベートという形で矮小化してしまったことかもしれない。

物語はこういった「神/宗教」というテーマと並行しながら、pkとTVリポーターのジャグとのささやかな交流、そしてpkのほのかな想いをも描いてゆく。「神/宗教」という論議はどこか抽象的なものだが、「愛」はより具体的で身近なものだ。そして「神/宗教」が人の生のある一面を司るものなら、「愛」はそれよりもより多くの面を司ってゆくものなのだ。こうして映画『pk』は「神/宗教」をテーマにしながらも最後に一つの「愛」の形へと集束してゆく。なんとなれば、人は例え神も宗教もなくとも生きていけるけれども、愛無しでは生きていけないものなのだ。こうしてクライマックスを迎える『pk』は、きっと爽やかな涙を観客にもたらすことだろう。

IV.


蛇足となるが、神と宗教に関する個人的な感想を書きたい。何故人は神を追い求めるのか?オレ個人は全くの無宗教だが、かつてイギリス古典文学であるミルトンの『失楽園』を読んだ感想でこういったことを書いたことがある。

生は、やるせなく、やりきれなく、不条理な側面を持つものです。生は、艱難と辛苦に満ち、途方に暮れることばかりが起こりがちです。そうして生きながら、やがて年老い、体が利かなくなって死ぬのです。あるいは、突然の事故や、病気や、そのほかの、想定出来ないあらゆる理由で、人は生半ばして死にます。生は不条理です。宗教とは、その不条理さに理由をつけようとしたものなのでしょう。自分は、信仰を持っていませんし、今のところ、持つ予定もありません。しかし、生の不条理に理由をつけようとした宗教というツールはやはり物凄いものだったのだな、と感じるのと同時に、宗教の非合理性に与する事を善しとしない程度の知識と合理性を持っていたとしても、生の持つ不条理に対して人はやはり無防備な存在でしかない、とも思えるのです。

映画『pk』は「神/宗教」というテーマ性から、圧倒的に無宗教な日本では公開が難しいかもしれない。しかし、ひとつのアレゴリーを徹底して追及する物語としてこれほど面白い作品もなかなか巡り会えないのも確かだ。そういった部分で、興味を持った方には是非ご覧になってもらいたい作品だ。素晴らしいですよ。
http://www.youtube.com/watch?v=82ZEDGPCkT8:movie:W620

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