透徹した孤独〜映画『かぐや姫の物語』

かぐや姫の物語 (監督:高畑勲 2013年日本映画)


ぐああああナメてた、ジブリちょっとナメ過ぎてた。この『かぐや姫の物語』、とんでもない水準の作品だった。最近のジブリアニメじゃ相当高い完成度といえるんじゃないだろうか。少なくとも個人的には『風立ちぬ』よりも感銘を受けたし、度肝を抜かれた。
お話はもちろんあの「竹取物語」だ。オリジナル・キャラがいたり若干物語を端折ったりしている部分はあるようだが、基本的にオリジナル・ストーリーに忠実にはできているんじゃないだろうか。実の所オレはオリジナルきちんと読んでるわけじゃないから胸張って言えるわけじゃないが、「よく知っているあの竹取物語」から決して逸脱していたり新解釈や新テーマが盛り込まれていたりというわけではないことは分かる。だから逆に「今さらかぐや姫?」と観る前から思ってたし、妙な新要素を加えられた現代解釈版だとしても興味の湧くものではなかった。
じゃあこの『かぐや姫の物語』はなんだったのかというと、「オリジナルの物語はそのままに、それを鬼気迫るアニメ技術と圧倒的な情感で描き切ったアニメ作品」ということができるだろう。だから「よく知っている「竹取物語」の筈なのに、これまで感じたこともないような感銘を呼び起こす作品」として完成しているのだ。
物語が始まり、まずその”動き”の素晴らしさに驚かされる。赤ん坊であるかぐや姫のくにゃくにゃした動きの妙などは類稀なる観察眼と描写力の賜物だろう。ここにはモーション・キャプチャーですら及ばない「"動き"へのこだわり」を感じる。そして水彩画風に描かれた日本の四季折々の自然の風景がまるで1枚絵を見せられているかのように美しい。
さらに物語が進むと中世日本の貴族や平民たちの暮らしぶり、そしてそれにまつわるありとあらゆる道具、衣類などがリアルに再現される。「竹取物語」は正確な時代設定がないために「時代考証」という言い方はおかしくなってしまうが、それでもここでは最大限に正確な中世日本の情景を描こうと、あらん限りの資料を調査し駆使したであろう跡がいたる所に見ることができる。
そして豊かな情動でもって描かれたその物語は、単なる御伽噺の枠内を超え、ひとつの孤独な魂のさすらう様とその咆哮を、冷徹な視線で描き切るのだ。ここで監督・高畑勲の透徹した話法はどこまでも鋭利で情け容赦なく、なまぬるい救済すら許そうとしない。なぜならそれは、かぐや姫の持つ【孤独】が、いかに暗く深い奈落の中を彷徨うものであるかを鮮烈に表出するためであるからだ。その情け容赦の無さは高畑勲の問題作『火垂るの墓』をさえ想起させる。
しかしこの物語は決して救いの無い物語なのではない。むしろかぐや姫がさらけ出す身を切るような切なさを通して、この作品を観る我々個々人が、自らの裡にある【孤独】を追体験し、そしてそれとどう向き合うのかを考えさせるからだ。それにしてもこれはなんという恐るべき作品なのだろう。こうしてアニメ『かぐや姫の物語』は、エンターティメント性においても芸術性においても、そしてその文学性においても、決して他の追従を許さぬ唯一無二の傑作として輝き渡るのである。