僕らは決して離れない〜映画『悪童日記』

悪童日記 (監督:ヤーノシュ・サース 2013年ドイツ・ハンガリー映画)


第2次大戦の最中、寂れた農園に住む祖母の元に疎開させられた双子の少年が、そこで体験する過酷な日々を生き延びながら日記に綴ってゆく様を描く作品である。原作はアガタ・クリストフのベストセラー同名小説。

そこはヨーロッパのどことも知れぬ国、双子の少年が疎開させられた先に住む母方の祖母は、人々から「魔女」と呼ばれる粗暴で偏屈な老婆だった。双子の少年は老婆の情け容赦ない仕打ちに耐えながら、そこで農作業と家事に従事し、独学で読み書きを覚え、自虐的なまでの方法で肉体と精神の鍛練をお互いに課した。彼らは盗みや恐喝をすることすら厭わず、ナチスの性倒錯者の将校や、コソ泥を続ける隣家の娘と出会いながら次第に成長してゆく。そして戦争はようやく終わりかけようとしているように見えたが――。

「戦争の悲惨」により様々な惨たらしく、そしておぞましいものを目にし、それを体験しながらも、その中でなんとしても生き延びようとする少年たちの物語である。少年たちは常に暴力にさらされ、その目の前には夥しいまでの死が溢れるが、彼らは過酷な「鍛錬」を通してそれを乗り越えようとする。彼らは残酷な現実に対して決して嘆くことも逃げ出すこともせず、そしてお互い以外の者を一切頼らず、抜け目なく、徹底して現実的に対処してゆこうとするのだ。この、年端もいかぬ子供にあるまじき逞しさと狡知はなんなのだろうか。それを子供ならではの適応力ととってもいいのだが、彼らの行う過激ながらどこか子供じみた「鍛錬」の成し方に、彼らがこれら一切を一つの「冒険」として乗り越えようとしているように見えてしまうのだ。それは非常にグロテスクで遣る瀬無い冒険ではあるが、そもそも彼らの置かれた現実そのものが、実はグロテスクで遣る瀬無いものではないのか。

彼らはお互い以外を信じない。また、お互いに信頼を寄せた者しか信じない。それ以外の、国家も、信条も、規則も、彼らは一切信じようとしない。なぜならこれら全ては、常に彼らを裏切り続けてきたものだからだ。と同時に、それは子供には理解できないものだからだ。彼らはあらゆるイデオロギーを否定し無視するが、それは戦時という破壊的な状況があらゆるイデオロギーを無効にしてしまっているからである。だからこそ彼らはまさに今通用する流儀だけで生き、そして生き延びる。逆に、なんらかのイデオロギーに、従来的な価値観や慣例に縛られた大人たちは次々と命を落としてゆく。こういった中で、未だ誰も足を踏み入れたことのない、なんらかの価値観で染められたことのない世界で生きようとするからこそ、彼らの生は冒険となるのだ。

こうして彼らだけのルールで生きるこの双子の兄弟は、徹底した反倫理の中で、けだものののように逞しく、そして残酷だ。母親との別れに涙した後に、一切の感情を見せないこの双子は、この過酷な現実を現実とは見なさず、過酷ではあるが、乗り越えなければならない冒険と見なすのだ。だから、一見「現実的」に見える彼らの行動は、実は彼らにとってのこの世界が「非現実的」であり、そこに感情を差し挟む必要が無いからこそ、どこまでもドライで、そして冷徹な行動となって、即ち「一見現実的」な行動として成されてゆくのだ。

そういった点で、この物語は奇妙にねじれ、そしてグロテスクなものではあるにせよ、決して「戦争の悲惨」と「それにより虐げられた幼い兄弟」といった、ありていのテーマのみを描いた作品ではない。また、ここで描かれる「双子」は、「最も強く濃密な繋がり」であり、「強烈な精神的感応」であるものを具現化した存在であり、であるから、実は普通の兄弟でも親子でも、夫婦でも恋人でも、親友や師弟でも構わないのである。つまりこの物語は、「一つの濃密な繋がりの生み出すけだもののような生命力」を描くものであり、そして「その生命力でもって、何者にも縛られず生き延びる様」を描いたものなのではないかと思うのだ。だからこそあのラストに、「孤独に生きることに生き延びる術はあるのか」といった問いを残しているように感じるのだ。


悪童日記

悪童日記