言葉がなくても伝わるもの〜映画『バルフィ!人生に唄えば』

■バルフィ!人生に唄えば (監督:アヌラーグ・バス 2012年インド映画)


『バルフィ!人生に唄えば』は聾唖の青年バルフィ、バルフィの恋した裕福な娘シャンティ、バルフィの幼馴染で自閉症の少女ジルミルの3人が織り成す笑いあり涙ありのヒューマン・ドラマだ。

【物語】インド北東部の町ダージリン。この町に、聾唖ながら明るく生きるひょうきん者の青年バルフィ(ランビール・カプール)が住んでいた。バルフィはある日この町で、裕福な生まれの美しい娘シュルティ(イリアナ・デクルーズ)と出会い、恋をする。バルフィの真っ直ぐな生き方に惹かれるシュルティだったが、彼女には既に婚約者がおり、結局彼女は婚約者と結婚してしまう。一方その頃、バルフィの父親が倒れ、その治療費を工面しなければならなくなるが家は貧乏、そこでバルフィの思いついたのが幼馴染の資産家の娘、ジルミル(プリヤンカー・チョープラ)の誘拐だった。しかし何故かジルミルは何者かに誘拐された後で、しかもひょんなことからそのジルミルを救いだしてしまう。だが自閉症のジルミルは家族から疎まれており、家に帰りたくないとぐずる彼女を、バルフィは仕方なく自分の家に置く羽目になってしまう。

こうして物語は、バルフィとシュルティの実らなかった恋とその行方を、そしてバルフィとジルミルの奇妙な共同生活から生まれる愛を、さらにジルミルの真の誘拐犯の謎を、時系列を行きつ戻りつして描いてゆく。これら幾つものドラマをミックスさせ時系列を弄りながら長丁場で見せてゆくのはインド映画ならではの手法だろう。
映画の冒頭でまず観客を楽しませるのは、チャールズ・チャップリンバスター・キートンらのサイレント喜劇を明らかに意識したとみられるスラップスティックなアクションだろう。主人公バルフィが聾唖である、といった設定から、これらサイレント映画のテイストはいやがうえにも増し、そしてこのドタバタは映画全体に一貫した笑いのトーンを生んでゆく。さらにそこにはチャップリン喜劇が持つペーソスが加味され、思う存分笑わせ後にしんみりとした悲哀が描かれ、物語に陰影を与えてゆくのだ。それと併せ、この映画からは往年のイタリア映画のテイストを感じた。…などと書きつつ、自分はたいして古いイタリア映画を観ているわけではないので、これはイメージなのだが。
さらにロケーションが素晴らしく美しい。一言でインドといってもそこはインド亜大陸、一般的にイメージされるような「暑い」だけの国では決してなく、この映画の舞台となるダージリンなどはヒマラヤに連なる尾根の上標高2134mに位置する避暑地で、年間最高気温16度という涼しいぐらいの土地であったりする。そしてそういった土地ならではの風光明媚さ、さらにイギリス植民地時代の名残りとなる建物が点在したヨーロピアンテイストの街並みが独特であったりするのだ。こういった映画としてのテイスト、ロケーションとしてのテイストから、インド映画でありながらインド映画臭さの希薄な部分がまたユニークな映画でもあるのだ。
さて物語としてはどうだろう。この『バルフィ!』、ハンディキャップを背負った者同士のドラマ、ということから懸念される「泣かせ」と「感動」を強要するような「あざとさ」と「甘さ」が確かにある。そして「泣かせ」と「感動」に持って行こうとするために説明過多となっている。「それは胸を打つ話だったのです」などとナレーションで説明してはアウトだろう。時系列を弄った物語はインド映画では多いとはいえ、この作品では少々やり過ぎに感じた。それと同時にシュルティの扱いが結局は酷いもののように思えた。しかしこのシュルティの「どうにもならなさ」にはインド的な一筋縄ではいかない「業」の存在を感じてしまう。
とはいえ、この映画で圧巻だったのはジルミル演じるプリヤンカー・チョープラの鬼気迫る演技だろう。自閉症という一歩間違うと忌避感を感じさせてしまうキャラクターを、重すぎず、かといって上っ面をなでるような軽さでもなく、絶妙のバランスで演じながら観客の心をつかんでしまう手腕には驚かされた。しかもこのプリヤンカー・チョープラ、ミス・インドにもなった超美人でありながらそれを野暮ったいルックスに封印し、演技一本で観る者を大いに納得させてしまうのだ。彼女の演じるジルミルの、その天真爛漫で破天荒な一挙手一投足に誰もが魅せられることだろう。だからこそ、この映画はジルミルとバルフィにクローズアップした物語として語られた方がより安定感があったように思えた。
(↓こんなジルミルさんですが実はこんなプリヤンカー・チョープラさんが演じてます)

http://www.youtube.com/watch?v=tVyrENWIJHI:movie:W620