象徴と寓意のダンス〜映画『リアリティのダンス』

■リアリティのダンス (監督:アレハンドロ・ホドロフスキー 2013年チリ・フランス映画)

ホドロフスキー少年時代

『エル・トポ』、『ホーリー・マウンテン』、『サンタ・サングレ/聖なる血』、これら圧倒的な映像と魔術的なストーリーテリングを持つ作品で知られるカルト映画監督、アレハンドロ・ホドロフスキーの新作が遂に公開された。これは日本未公開作品「The Rainbow Thief」(93)以来23年ぶりに手がけた監督作なのだという。

映画の元となったホドロフスキーの自伝『リアリティのダンス』は読んでいない。しかし【松岡正剛の千夜千冊 1505夜『リアリティのダンス』アレハンドロ・ホドロフスキー】によると、若かりし頃から「超」が付くほど筋金入りの前衛アーティストであったホドロフスキーの、少年期から青年期に渡るめくるめくようなアーティスト活動と、膨大な人数の思想芸術家との出会いとが書き記されているらしい。しかし映画ではホドロフスキーの子供時代のみが抜粋され描かれることとなる。ただし自伝とはいえそこはホドロフスキー、「実際にあったこと」が綴られているような形式では決してない。ではいったい何が描かれているのか。

舞台となるのは、1920年代、軍事政権下にあった南米チリの町トコピージャ。ここで少年アレハンドロ(イェレミアス・ハースコヴィッツ)は、「男らしくあること」にあまりにもこだわる暴力的な父ハイメ(ブロンティス・ホドロフスキー)、アレハンドロを父の生まれ変わりと信じ、そして常にオペラ歌手が歌うかのように会話する母サラ(パメラ・フローレス)と共に過ごしていた。アレハンドロの一家ユダヤウクライナ移民であり、それによりアレハンドロは常にいじめの対象になっていた。その中でアレハンドロは、小人の呼び込み、町にたむろする不具者の集団、瞑想を教える行者と出会い、一人空想に浸るのが好きな少年となっていた。彼の家族の転機は、度重なる圧政に遂に大統領暗殺に旅立つ父、という形で起こることになる。しかしその父を待つのは、あたかも荒行の如き苦難であった。

■過去を再構築することで描かれる救済の物語

ホドロフスキーの自伝ということから、少年時代のホドロフスキーの出来事のみを描くのかと思っていたがそうではなかった。確かに前半は少年アレハンドロが出会う奇妙な人々と、彼の体験する超現実的な光景こそ描かれるが、後半から描かれるのは、大統領暗殺に旅立った父親が至る数奇な運命であり、その修験者の苦行を思わせる体験から、遂に父ハイメが至る一つの真理が描かれるのだ。そしてその父を待つ妻であり母であるサラの、慈愛に満ちた思いもまた並行して描かれることになる。映画冒頭に現れるサーカスチームや中盤の娼館は『サンタ・サングレ/聖なる血』のモチーフと重なり、父ハイメの体験する神秘的な苦行は『ホーリー・マウンテン』そのものであり、そして真理へと至る血塗れの彷徨は『エル・トポ』を想起させる。

ここでもホドロフスキーの描くものは生と死、聖と俗、清浄と汚濁が混沌となりながら一つの鍋の中で煮えたぎっているかのような情景であり、その強烈なコントラストは観る者の感情をあたかもジェットコースターに乗っているかのように光り輝く遥かな高みと腐臭漂う地の底とに往復させる。この眩暈のするような感情と感覚の揺さぶりこそがまさにホドロフスキーの真骨頂といえるのだけれども、この『リアリティのダンス』はこれまでのホドロフスキー作品の再話、焼き直しなどでは決して無かった。それはかつて論議を醸したカルト作品を制作していた若かりし日のホドロフスキーが持つ熱情とはまた別の、年齢を経て老成を得たからこそ描くことのできる哀感と郷愁、そして大いなる共感と愛情だったのだ。そう、『リアリティのダンス』はこれまでのホドロフスキー作品と似ていながらまた違うのである。

では『リアリティのダンス』は何が描かれていたのか。それは少年アレハンドロと彼の一家とを、自伝という形式を取りながら再構築する、といったものだった。実際のホドロフスキーの父はただ抑圧的な親だったという。しかしその父は映画の中で苦難に満ちた彷徨の未に自らの心の裡にあるデーモンと対峙し、遂に家族への真の愛に目覚める。そして実際の母はオペラ歌手に憧れながらも親の反対で平凡な売り子として生きることを余儀なくされていたが、映画ではその母はいつもオペラを歌い、慈愛の中で神と交信する聖母として描くことになる。そして少年アレハンドロは、これら再構築された両親の間で、最終的に大きな愛に包まれることとなるのだ。すなわち『リアリティのダンス』は、自伝の形に見せながら過去を救済し、幸福の中で完結させようとした物語だったのだ。

■象徴と寓意のダンス

出演者を始めとするこの映画に関わる者にホドロフスキーの縁者が多く関わっているのも興味深い。主人公アレハンドロの父・ハイメはホドロフスキーの長男が演じ、また、半裸の行者や暗殺者となるアナキストホドロフスキーの息子だ。さらに衣装デザインはホドロフスキーの妻が担当しているという。これは単なる家族主義、身内贔屓という部分もあるのだろうけれども、それだけではなく、肉親の血の濃さの中からこそ生まれるバイブレーションをホドロフスキーは作品の中に生み出したかったのだろう。さらに映画の舞台であるチリの町トコピージャは、実際にホドロフスキーの生まれた町であり、映画ではその土地をそのままロケーションとして使っているのだ。撮影に赴いた時ですらトコピージャの町はホドロフスキーが過ごした頃と何一つ変わってはおらず、ただひとつ、今は焼失してしまったホドロフスキーの生家を建て直し、そこで撮影がなされたのだという。

ホドロフスキーの作品が持つ寓意性は、彼が傾倒するタロット・カードに負う所が大きいだろう。タロットはそれぞれに【シンボル(象徴)】を持った幾つかのカードをシャッフルして組み合わせ、その偶然の組み合わせの中から【アレゴリー(寓意)】を読み込む。ホドロフスキーの作品が多様なシンボルに溢れ、なおかつアレゴリカルであるのはこのためだ。偶然性の中に寓意を読み込む、というのはシュルレアリズムでいうところのデペイズマンに当たり、そういった部分でホドロフスキーの作品はシュールである、ということもできる。しかしシュルレアリズムが「偶然性による意味の異化作用」を目指したものであるのに対し、神秘主義ホドロフスキーは「偶然」ではなくそこに「見えざる意志」を見出す。それは【神性を獲得した無意識】と言うこともできる。ホドロフスキーの作品が一見シュールながら決して難解なものでも衒学的なものでもないのは、そのシンボルの表すところが非常に通俗的であるがゆえにアレゴリーを読み込みやすいからだ。

それにしても『リアリティのダンス』というタイトルにはどのような意味が込められているのだろうか。ホドロフスキーはインタビューの中で「人生もこの世で起こることも繋がったものであり、そしてそれらは常に変化してゆく、即ちそれはダンスのようなものなのだ」と語っている。それは【生々流転】ということなのだろう。このとき【リアリティ】とは、いわゆる「客観性による現実」を指すものではなく、「主観性による現実」を指すものなのだろう。ホドロフスキーの作品の多くは、「客観性による現実」の持つ諸相を「主観性による現実」でもって捻じ伏せた表現となっている。それこそが「寓意化」なのだ。ホドロフスキーの『リアリティンのダンス』はこうして、象徴と寓意のダンスを描きながら、生の秘密とその真実を、そして生きることの喜びと慈愛とを解き明かしてゆくのだ。


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