偽りの結婚から芽生えた愛〜映画『Ishaqzaade』

■Ishaqzaade (監督:ハビーブ・ファイサル 2012年インド映画)


この作品は内容が「ロミオとジュリエット的な物語」という触れ込みがあり、そういった内容であれば『Goliyon Ki Raasleela Ram-Leela』で既に観ているので、特に観なくてもいいかなとは思っていたのだが、ポスターや予告編の、奇妙に荒涼とした雰囲気がなんとなく気になり、やはり観てみることにした。すると、確かに主人公が敵対する二つの家の息子と娘、という初期設定はあるにせよ、なんと物語途中からこの二人が、結託した二つの家から命を狙われることになる、といった独特の展開を迎えるのだ。合わせて、この物語が極めてインドのドメスティックな心情の在り方に基づくものであり、そのインドならではの心情を読み解きながら観る、といった部分に面白さを感じた。今回は少々ネタバレしつつ感想を書く。

物語の舞台は北インドの小さな町だ。今この町で、ヒンドゥー教徒のチャウハーンという男と、イスラム教徒のクレシーという男が選挙に立候補してしのぎを削っていた。チャウハーンには荒くれ者のパルマ(アルジュン・カプール)という息子がおり、一方クレシーには非常に気の強いゾーヤー(パリニーティー・チョープラー)という娘がいた。パルマとゾーヤーもまたいがみ合っていたが、次第にパルマはゾーヤーを口説くようになり、ゾーヤーもまたパルマを受け入れ、そしてある日二人は秘密の結婚式を挙げることになる。

だがそれはパルマの策略だった。ムスリムのゾーヤーがヒンドゥー式の結婚式を挙げている写真をばらまき、彼女の父クレシーの選挙を不利に持ち込もうとしていたのだ。果たしてクレシーは敗退し、原因となった自らの娘を激しくなじる。パルマに騙され、父に拒否され、怒りと悲しみに半狂乱となったゾーヤーは拳銃を片手にパルマの部屋に忍びこむ。しかしそこで待っていたのはパルマの母だった。経緯がどうあれ結婚した以上あなたは私の息子の嫁であり私の娘だ、と諭すパルマの母。そしてやってきたパルマを叱咤し、結婚した以上あなたの妻を守りなさい、と命令する。パルマは自分の責を認め、ゾーヤーを連れて逃げ出す。だが二人の父親とその配下は、彼らにとって裏切り者である二人を殺そうと追跡を始める。

ストーリーだけから見るとパルマは女性の敵ともいえる酷い男なのだが、映画では実際それほど憎々しく感じないのだ。それはパルマが単なるおバカなオコチャマだからだ。誰に頼まれてもいないのに勝手に暴走して選挙相手の邪魔をしその娘を平気で傷つけるが、それは単に父に評価されたいからだった。子供ならではの残酷さと単純さから行動したパルマはしかし、母親に非難され子供らしくしゅんと落ち込み、子供らしくすぐさま改心する。一方ゾーヤーはパルマよりも全然大人だし、勝手に引っ掻き回されただけではあるが、真正な結婚と認められた瞬間からパルマの全てを許しもう一度愛し始める、という奇妙な無邪気さを感じさせる。

偽りの結婚であっても、真正な僧侶の前で結婚した以上、それが厳粛で真正な結婚なのだとされているのは、それだけ宗教の力が強いからなのだろう。騙された結婚であっても、それが認められたゾーヤーが突然パルマを許すようになるのは、結婚というものの支配力が非常に強いものだからなのだろう。あんなに放埓な行動を繰り返していたパルマが、母親の叱咤でしゅんとなり改心するのは、家族主義のインドでは父母はまだ十分な力を持っているからなのだろう。そんなインド的な心情の在り方を想像しながら観るのが面白かった。

映画それ自体はやはりどこか荒んだ雰囲気が全体を覆う。インドのひなびた地方都市、その荒涼とした町並み、そこに住む人々のぎすぎすとした感情、町外れの廃墟。そして主人公パルマのイカレっぷり、もう一人の主人公ゾーヤーのとげとげしさ。古い因習に囚われて生きる事しか知らない人々の、ガサツで頑なな生き方が悲劇を呼ぶ。「ロミオとジョリエット」が下敷きとは言いながら、ロマンチックさは薄く、遣り切れなさだけが生かされている。う〜んでも、いくら「ロミジュリ」とはいえ、あのラストはちょっと承服しかねるものがあったなあ。

http://www.youtube.com/watch?v=IonPkd7XHes:movie:W620