謎と発見と驚きのファースト・コンタクトSF〜『宇宙のランデヴー』

■宇宙のランデヴー / アーサー・C・クラーク

宇宙のランデヴー 〔改訳決定版〕 (ハヤカワ文庫SF)

I.

2001年宇宙の旅』の原作者、SF界の巨匠アーサー・C・クラークが1973年に執筆し、ヒューゴー賞ネビュラ賞、ジョン・W・キャンベル賞、ジュピター賞、英国SF協会賞、ローカス賞星雲賞と、SF界の賞を総なめにした金字塔的長編作品、『宇宙のランデヴー』の改訳決定版である。

【物語】22世紀、人類は太陽系の各惑星に進出し《惑星連合》を設立していた。ある日、深宇宙から太陽目指して飛来する天体が発見されるが、実はそれが長さ50キロ、直径20キロの巨大シリンダー状金属製人工天体であることが判明する。探査に向かえる距離にあるのは〈太陽系調査局〉の調査研究船エンデヴァー号のみ。"ラーマ"と名付けられた謎の人工天体は既に金星軌道の内側に入り、近日点まで40日足らず、エンデヴァー号は太陽に最も接近するその時までにラーマの調査を終えねばならない。かくしてタイムリミットが迫る中、エンデヴァー号艦長ビル・ノートン中佐とそのクルーたちは、異星文明の建造した未知の世界とのファースト・コンタクトに赴くのだ。

II.

SF小説は若い頃から割と読んでいたが、なぜだかアシモフと、そしてこのクラークは相性が悪く、数えるほどしか読んだことがない。多分クラークは『2001年』絡みの諸作と、『幼年期の終わり』、『地球帝国』、そしていくつかの短編あたりだけだろうか。《SF3大巨匠》と呼ばれるネームバリューから、作品は手にとってはみるのだけれども、結構な数を積読していた。どうもその文章や作風と相性が悪くて、読み始めてもすぐ放り出してしまうのである。文章が淡泊で、引き摺り込むような手練手管にどうも欠けて見えるのだ。クラークには内容にしても登場人物にしても実に誠実なイメージがあるが、裏返すとはったりに乏しく、いびつだったりどろどろしていたりする人間の内面にはあまり興味が無さそうで、そういった部分に物足りなさを感じていたのだ。

その代りクラークにあるのは科学への信頼と、良心への信頼だろう。そしてそれは楽天的であるとか楽観主義とかいうのとはまた違うように思える。科学というものに長年かかわってきたクラークにとって、それは科学を通じて未来を築き繋げてゆく進歩主義であり、それを行う人間と人間性への期待であり希望であるのだろう。例えばこの『宇宙のランデヴー』と同様のファースト・コンタクト・テーマを得意とするスタニスワフ・レムの諸作品を思い浮かべてみるといい。レムの作品にあるのは徹底的な猜疑と不信とディスコミュニケーションだ。それによりレムの作品にはシリアスで陰鬱な寓意が盛り込まれることとなるのだが、これはレムが暮らしていた東欧社会主義国の政治状況を如実に反映したものであるともいえる。

III.

しかしクラークにそういったくびきがない分、『宇宙のランデヴー』におけるファースト・コンタクトはもっと純粋に《謎と発見と驚き》に満ちたものとなっている。そしてクラークはその《謎と発見と驚き》を、実に稚気溢れる筆致で描き出す。それはまるでクラーク自身が、自ら生み出したこの世界に好奇心と興奮とで目を輝かせているようにすら感じさせる。そしてこれは《冒険》の物語でもある。急ごしらえの探検隊は万全の装備を持って調査にあたることができず、その為どうにもアナログで人力頼りの装備でラーマを調査しなければならない、という部分がなにしろ面白い。それにより数々の危機が調査隊を襲うが、それに対し彼らは、確固たる科学知識でもって問題を解決していこうとするのだ。これが科学への信頼、ということだ。

探検隊はラーマの太陽系侵入の理由にも、ラーマ建造者である正体不明の異星人にも、警戒こそするが、はなから敵愾心を抱いたりはしない。またラーマそのものの設備も尊重しようとする。ハリウッド映画みたいにとりあえず敵対してどんぱちやらかしたりなどは決してしないのだ。なぜなら進歩主義者であるクラークにとってそれは「野蛮なこと」であり「遅れたこと」だからだ。これが良心への信頼、ということなのだろう。こうしてクラークは科学への信頼と良心への信頼に裏打ちされた謎と発見と驚きの冒険をここに導き出すのだ。そこには翳りは無く、未来を臆することなく見つめようとする態度がある。そういった部分で『宇宙のランデヴー』は実にクラークらしいファースト・コンタクトSFということができるのかもしれない。

蛇足

ところでこの『宇宙のランデヴー』にはちょっとした思い出がある(たいしたことではないが)。オレが中学生だった時に初めて買ったSFマガジンに、この『宇宙のランデヴー』が連載されていたのだ。しかしその連載は既に後半あたりに差し掛かっており、途中から読むわけにもいかず、読むことが出来なかったという経緯があった。しかもその後単行本化された時も、多分購入もしたような気がするが、積読の悪い癖が出てしまいそのままだった。だから今回の《改訳決定版》は積年の因縁に決着…なんて大袈裟なものではないのだが、回り回って30有余年、やっと読めた作品というわけである。