レオス・カラックスはやっぱり苦手〜映画『ホーリー・モーターズ』

ホーリー・モーターズ (監督:レオス・カラックス 2012年フランス・ドイツ映画)


レオス・カラックス、苦手っていうよりも「この人はなんだか気になるけどよくわかんねえんだよなあ」って監督で、処女作『ボーイ・ミーツ・ガール』を劇場で観て「無理。わかんね」とぶんなげた監督ではあるんですが、その後もなんだか気になって『汚れた血』と『ボンヌフの恋人』までは観ました。どれもハッとするシーンはあるにはあるんですが、記憶に残るのもそれだけで、まあ好みじゃねえってことなんだろうなあ。
映画『ホーリー・モーターズ』は、リムジンの乗った老人がその中でいろんな仮装しては表に出て、なにやら役柄を演じてはまたリムジンに戻り、また別人になって外に出て…ということが繰り返されるんですね。最初は「いったいなにこれ?」と思って観ていると、人刺したり拳銃で撃ったりと行動がエスカレートし、でも車に戻るとまたケロッとして別人に変装している。このあたりで「ああこれは現実と仮構がごっちゃになった映画なのね」と分かり、つまりリムジンも老人の行動も何がしかの暗喩であろうということが分かってくる。じゃあなんなのかというとこれは俳優という生き方なのかな、と自分なんかは思った。その演じられる「仮構」にはしかし、主人公の老人の「現実」もちょっとづつ混じっているのかもしれない、それはどこがどう、ということではなくて、「仮構」を演じ続ければその中にどうしても「現実」は混じってくるのかもしれない、そういった部分で演じる者にとっての「現実/仮構」がお互いに流入しあい曖昧になる感じ、そういった部分も描かれているのかな、などと、よく分かんないなりになんとなく思った。
とはいえやっぱり難解といえば難解で、面白かったかといえばなんとも答え難く、ただ「なんなんだろうこれは?」と思いつつ観る体験は得られる映画ではあった。
それともう一つ思ったのは「非常に映画的な映画だなあ」ということ。小説やコミックや演劇や、最近ではゲームなんかは容易く映画化されるし、また逆もあるのだけれども、それはどのジャンルでも物語だけ取り出せば互換の効く表現であるということで、極端な事を言えば「どれでもいいじゃん」ということになってしまうんだけれども、ことこの『ホーリー・モーターズ』に関しては、これはまさに映画でなければ表現できない、映画であることが前提で成り立っている作品である、という部分で、レオス・カラックスという監督がどう映画に向き合おうとしているのかうかがい知る事ができた。オレはゴダールとか観ないし観ても最初の3分ぐらいで映画を投げ出すような人間なんだが、推測としてゴダールという人もこの「映画でなければ成り立たない映画」を撮っていた人で、だからレオス・カラックスが「ゴダールの再来」なんて言われてたりするのかな、と思えた。ただこういった「映画でなければ成り立たない映画」が苦手なオレは実の所そんなに「映画」それ自体にはこだわってないんだよなあ、ということも理解できた映画であった。
それにしても主演のドニ・ラヴァン、『ボーイ・ミーツ・ガール』の頃から不細工な顔してたけどどんどん汚くなってこの映画でも相当汚くて、いやあフランス人ってこういうリアリズム好きだよなあ、レオス・カラックス自身、自分の化身として抜擢してるんだろうけども、こういう汚さに自分を仮託するのって壮絶な自己否定だよなあ、そこが映画作家としての潔癖さの表れなのかなあ、としみじみ思えた映画でもあった。