ナイーブさを巡る闘争〜映画『ザ・イースト』

■ザ・イースト (監督:ザル・バトマングリッジ 2013年アメリカ映画)

I.

この『ザ・イースト』は映画『アナザー・プラネット』の主演女優ブリット・マーリングが、『アナザー・プラネット』と同様に製作・脚本・主演を手掛けた作品である。『アナザー・プラネット』は個人的に相当好きな映画作品なのだが、ブリット・マーリングの美貌にも大いにそそられるものがあった。そして31歳という若さで製作・脚本も務めるとは頼もしい。これは観に行かねばなるまいと思い劇場に足を運んだ。
『ザ・イースト』は環境テロ集団イーストのアジトへ、正体を隠し潜入捜査を行う民間調査会社の女性職員サラ(ブリット・マーリング)を主人公にした物語だ。サラはイーストの実態に触れ、その破壊活動にメンバーとして同行するが、そこで目にしたのは彼らの奇妙にナイーブな生い立ちだった。最初活動に反発していたサラは、彼らの攻撃する大企業の悪辣さにも疑問を持つようになり、自らの職務とイーストの信条の間で心が揺れ動く。そしてサラはイーストの指導者であるベンジーに次第に惹かれてゆく自分に気付き始める。潜入捜査の緊張感と、その中でじわじわと不明瞭になってゆくアイデンティティを描くさまがスリリングなサスペンス映画だ。

II.

『ザ・イースト』と『アナザー・プラネット』に共通項があるとすれば、それは【世界へのナイーブさ】だろう。『アナザー・プラネット』においてはそのナイーブさは、苦痛と後悔に満ちた生のありかたを、ごく一個人の視点から痛々しく表現することとなった。そしてこの『ザ・イースト』では、世界に対するナイーヴさを「社会悪を糾弾するために暴力的なテロを行う地下組織」という形で一歩引いた形で表現する。社会悪は糾弾されねばならない。しかしその手段として暴力を持ち込むことは果たして正しいのか。そしてまた、「社会」という大きな主語を扱うテロリストたちのその本性には、実は彼らの単に個人的で「ナイーブな」事情が存在しているだけではないのか。
『ザ・イースト』におけるテロ集団イーストは、最初こそ急進的な戦闘的テロ組織のように登場する。しかし彼らのサークルに潜入したサラが見たのは、奇矯な儀式を行うカルト教団の如き存在だった。武闘派環境保護団体シーシェパードというよりは、まるでインドかぶれのヒッピー教団のようだ。そしてその後ザ・イーストのメンバーというのが、無政府主義やらなにやらの思想に凝り固まった戦闘集団というわけではないらしいこと、そしてその行動の裏側に、個々人の心情的なわだかまりの発露があることが徐々に描かれる。やはり彼らの本質にあるのは憎悪や政治思想ではなく、純粋さであり牧歌的な正義であり、そういったナイーブなピュアネスを阻害するものへの、窮鼠猫を噛むような抵抗だったのだ。
イーストに潜入したサラは、次第に彼らの思想の在り方に感化されてゆくかのようにも見えるが、実はサラが感化されたのは、「環境保護」という思想ではなく、彼ら自身のナイーブなピュアネスだったのではないだろうか。それはイーストの指導者ベンジーとサラの恋に現れている。サラがベンジーに恋したのは、その正義心と思想の正しさからではない。ベンジーのそのナイーブさが、潜入捜査官を生業とするサラの、殺伐としたビジネスの世界、二重生活と精神的緊張で軋む心の中に、すっと染み込むように入り込んでしまったから、サラはベンジーに恋したのではないか。だからサラは、正義の為ではなく、「ベンジーの為に」、イーストに心情的に入り込んでゆくのだ。そしてそれ自体が、サラのナイーブさだったのである。

III.

この作品は社会問題とそれに声を上げるものとの拮抗をテーマとして描いた作品であることは確かである。しかし、決してそれ自体がテーマの中心ではない。何故なら、製作者ブリット・マーリング自らアナーキストや"フリーガン"と呼ばれる廃棄食料救済活動者にリサーチしながら、この物語が社会悪追及や企業陰謀論や血で血を洗うテロ活動に塗れたガチガチに社会派のダークでシリアスな作品にならなかった(だからこそ物足りないとか青臭いと評価されることもあるが)のは、製作者ブリット・マーリングが物語の主眼をそこに置くことを善しとしなかったからだ。ブリット・マーリングがテーマにしたかったのは、「社会悪」という大きな物語の陰にある、個人個人の小さな物語であり、そしてそれらの人々の圧殺された心情に、同情とは別の形で寄り添うことだったのではないだろうか。
テロ集団イーストが、正義や真実の為のみに集った集団ではなく、実は社会的弱者(聾唖者とゲイがいたことに注意)や心弱き者たちが身を寄せ合う為のサークルでもあったのは、そこが彼らの避難場所であったからだ。メンバーそれぞれの、なにがしかの理由で鞭打たれ傷ついた心を癒し解きほぐす、仲間と言葉が、彼らには必要だったのだ。そして彼らを団結という形で心をより強く保つために形成されたのが、「社会悪」という敵役だったのだろう。それはイビツで、間違った方法論だったけれども、環境テロという使命があったからこそ、その時彼らは弱者であることから克服できたのだ。人は理性を重んじられる社会的な生き物であると同時に、傷つきやすい感情を持った個人でもある。その傷つきやすい感情を持った個人であることを否定された時、人はどのように生き延びればいいのか。『ザ・イースト』は傷ついた者たちの、そのナイーブさを巡る闘争を描いた物語だったのである。