ナチス・ドイツの子供たちが辿る暗い道行き〜映画『さよなら、アドルフ』

■さよなら、アドルフ (監督:ケイト・ショートランド 2012年オーストラリア/ドイツ/イギリス映画)


原作こそ読んでいないけれども、ジブリ・アニメ『火垂るの墓』は太平洋戦争敗戦により戦災孤児となった子供たちの悲劇的な運命を描くドラマとして、強く心に焼き付けられた作品だった。あのあまりに残酷な結末は、もう二度とこの作品を観たくないとすら思わせたぐらいだ(実際劇場で観たきり1度も観ていない)。戦争の惨たらしさは、これら弱きものの苛烈な運命を描くことにより、より一層その不条理さを浮き上がらせるのである。

この映画『さよなら、アドルフ』は、敗戦後のナチス・ドイツ高官の子供たちが辿る過酷な運命を描いたドラマである。

主人公はナチス高官の父を持つ14歳の少女ローレ。ナチス・ドイツ躍進の時期には何不自由ない暮らしをしていた彼女ではあったが、敗戦後彼女の父は逮捕され、母もまた収容所へと送られることになってしまった。残されたのはローレと彼女の妹、そして双子の弟、まだ泣き止まぬ乳飲み子の5人の無力な子供たちだけ。「ナチスの子」と周りから忌み嫌われる彼女らは、ただ一人頼ることのできる遠方の祖母の家を目指し、600キロにわたる旅に出ることを余儀なくされるのだ。しかし連合軍の検問を避けながらのその旅は、暗い森とぬかるんだ泥道をどこまでも歩き通す、あまりに過酷なものであった。そしてそんな彼女を助けようと現れたのは、一人のユダヤ人青年、トーマスであった。

主人公ローレは年端もいかぬ少女であるが、かといって決して「罪なき子供」という描かれ方をしているわけではない。彼女はナチス高官の父に影響され、終戦までヒトラーへの崇拝とナチスドイツの正統性を疑わない子供だった。そして終戦後、ホロコーストの惨禍を知ってなお、ユダヤ人への偏見や蔑視を捨てられない子供でもあった。そんな彼女だからこそ、ユダヤ人青年に助けられたことで、自らが教えられてきたものの考え方との二律背反に苦悩する。大人でもなく子供でもない、思春期に差し掛かったばかりのローレにとって、この「世界観の瓦解」は大きなトラウマとなる。戦争の爪痕は、こんな部分でも子供たちを苛むのだ。

一方、ローレたち兄弟を助けるユダヤ人青年が実に謎めいた存在だ。ユダヤ人である彼が、なぜ少女たちを助けるのか、その動機や根拠は映画では描かれない。最初は美しい少女ローレへの性的関心があったからだと思わせつつも、心を許そうとするローレを拒むシーンからそれは否定される。乳飲み子を連れていると優先して食糧配給があるから、だからローレたち一行に着いていった、また、なにか後ろ暗い過去を持つからこそ家族と旅をしているふりをすれば検問を通る事ができる、そういった理由だったのかと想像するのだけれども、明確な描かれ方はされない。その為、「ナチスの子供を助けるユダヤ人」といった設定が生かされておらず、この部分に演出的な食い足りなさが残る。

この物語で目を惹くのは、ローレたちが道行くドイツの草原や森林の、蒼く暗く輝くその美しさだ。ローレたちのその運命とは裏腹に、これらドイツの自然はどこまでも瑞々しく、そして豊かに描かれる。それはここがつい今しがたまで恐ろしい戦争が繰り広げられ、多くの血を流し、夥しい死体を積み上げていった国家の土地であるとは思えないほどだ。人間の愚かな行いなど訳知らぬ顔で、自然は太古よりそこに存在し続けてきた。そしてそんな自然の光景の中で彷徨う兄弟たちの姿が、この物語が戦争の惨禍を描いたものなのにもかかわらず、奇妙な幻想性を帯びたものとなっているのだ。第2次世界大戦という時代性を通り越して、どこか神話的ですらある光景なのだ。それは多くの神話・民話を生み出したドイツの黒く暗い森のせいなのかもしれない。そしてこの自然の情景が、物語に冷たい抒情性を持ち込んでいるのだ。映画『さよなら、アドルフ』は、この幻想味と抒情性において、単に悲惨のみを描いた戦争映画には堕していなかったと思う。