科学とオカルトの狭間〜映画『レッド・ライト』

レッド・ライト (監督:ロドリゴ・コルテス 2012年アメリカ・スペイン映画)

■オカルト(隠されたもの)

神秘学を意味する「オカルト」っていうのはラテン語で「隠されたもの」という意味でもありましてな、だから「隠秘学」っていう訳語もあるんですが、元来は占星術とか錬金術とか魔術を扱う学問で、それは同時に「世界と宇宙の背後に隠された見えない真理」を探求する学問でもあるんですな。すなわちこの世界は「見えているもの」だけではない別の何かの原理で動いている、または動かされている、その「理(ことわり)」を追求する学問な訳です。
しかしその「世界を動かす目に見えない原理」は近代以降において【科学】でもって研究され解明されるべきものとして取り扱われ、そして【科学的であること】こそが合理的な物事の考え方であるというのは誰もが認めることではありましょう。それによりオカルトと呼ばれるものは神秘学というよりは不合理で非科学的で前時代的なものとされ、まあ現代では一般的にンなもん本気で信じてるような輩はちとアブナイ方である、というような認識をされてしまうわけでもあります。
しかし人の生というものには、ある種の不合理さがつきまとっているのも確かで、そういった不合理さへの「不安」を一足飛びに解決するために、「科学」ではなく「オカルト」に救済を求めることが実際あったりします。そしてそれは単にあっちの世界に行ってしまった人たちだけの話ではなく、例えば星占いや地鎮祭のような御祓いや神棚や初詣の願掛けなどは、実は日常的に存在するオカルトだったりするんです。それは信じるか?信じないか?という話ではなく、この世界には、何か目に見えない因果律が存在し、人の来し方とはそれに翻弄されているだけのものなのではないかという「不安」であったり、そうして生きてゆくことへの「感謝」、その不確かな生への「願い」であったりします。
医療やセラピーはその中の「不安」を科学的に救済しようとしますが、そういった「科学的であること」「合理的であること」のみによって救済されない人が存在するのも確かで、このような人の不安を食い物にした霊感商法があるのと同時に、宗教的な、或いは俗習的な慰めがその人を救ったりすることも有り得る訳です。オカルトとはグレイゾーンであり、さらに先にはダークサイドが待っていたりますが、人間の心理というものも、実はグレイゾーンの中で行き来する、やはり不合理なものであったりするのです。

レッド・ライト(不協和音)

映画『レッド・ライト』は心霊現象やら超能力やらの超常現象の嘘を暴き出し合理的に説明する物理学者、マーガレット・マシスンとトム・バックリーが主人公です。この科学者をシガニー・ウィーバーキリアン・マーフィーが演じます。この二人が超常現象のイカサマを快刀乱麻にぶった切ってゆくさまが前半のハイライトになります。シガニー・ウィーバーの自信に満ちた貫禄とキリアン・マーフィーの奇妙に不安定な表情が対照的であるのと同時に魅力的に描かれています。
この二人を脅かすのが伝説の超能力者と呼ばれ各地で公演するサイモン・シルバーです。これをロバート・デ・ニーロが演じます。充分に邪悪さを醸し出すロバート・デ・ニーロですが、大御所なだけに「超能力者」というよりは普通にロバート・デ・ニーロにしか見えないところが難です。さて、科学的に超常現象を解明してゆく筈の二人の周りに、サイモンが現れることによって不可解な事件や凶兆めいた不気味な出来事が起こり始めます。果たしてサイモンはいかさま師なのか?それとも本当の超能力者なのか?というのがこの映画の主題となります。
こういった物語の場合、やっぱり本当の超能力者でした!では実も蓋もないオカルト・ホラーになってしまうし、本当はいかさま師でした!でもやっぱり当たり前すぎて詰まりません。じゃあどんなラストが待っているのか?と固唾を呑んで見守っていたら、いやあヤラレました、まさかこう来るとは!という吃驚するようなラストが仕掛けられていました。ある意味全盛期のシャマラン並みの強烈なオチが待っています。自分はとても面白く見ることができました。
しかしそういった物語構成の妙とは別に、オカルティックで非合理的な現象を合理的な科学精神でもって解決する筈の主人公科学者マーガレットが、やはり不安や恐怖といった心の闇を持ち、それによりサイモンが持つという超能力の真偽に正面から対峙できない、という弱さが、この物語がもつもう一つのテーマを象徴しているように感じました。それは合理だけでは解決できない人間の心理ということです。マーガレットはその不合理から眼を背けながら「科学的」であろうとしますが、しかし目を背けたからといってその「闇」を追い払うことは出来ません。ではどうすれば彼女は苦悩から救われたのか?映画『レッド・ライト』は合理と不合理の狭間で呻吟する魂の存在を描く映画でもあったのです。