イデッシュ語で描かれた古くそして豊潤なるユダヤ社会〜『不浄の血―アイザック・バシェヴィス・シンガー傑作選』

不浄の血 ---アイザック・バシェヴィス・シンガー傑作選

愛と血と欲望と悪魔うごめく世界。ノーベル賞作家の傑作短篇からさらに精選。「永遠の法則」を追いつづけた人生の終盤で、思いがけない恩寵にめぐまれる初老の男(「スピノザ学者」)、実直で少し抜けていて、みんながからかうギンプルが出会う、信じがたい試練の数々(「ギンプルのてんねん」)、ポーランドの僻村に暮らす靴屋の一族の波乱万丈な流離譚(「ちびの靴屋」)、年老いた夫の目を盗み、牛を切り裂きながら愛人との肉欲に耽る女の物語(「不浄の血」)…。エロスとタナトス渦巻く濃密な世界を、滅びゆく言語(イディッシュ語)でドラマチックに描いた、天性の物語作家の傑作集。

アイザック・バシェヴィス・シンガーは1904(1902?)年ポーランド生まれ〜1991年没のイデッシュ語作家だ。イデッシュ語というのはドイツ・東欧圏のユダヤ語、ということらしい。単に「ユダヤ語」というわけではないのは、古代パレスチナに住み古典ヘブライ語を話していたユダヤ人が、ディアスポラ後にその居住する地方によりアラビア語・ラディーノ語(スペイン系ユダヤ言語)・イディッシュ語などへ言語的枝分かれをした為であるらしい。しかしこのイデッシュ語・イデッシュ語文化は、かのホロコーストにより壊滅的な打撃を受け、ユネスコの消滅危険度評価で高い消滅危険度を持った言語であることが言及されている。即ちアイザック・バシェヴィス・シンガーは、消えゆく言語でもって忘れ去られようとしているドイツ・東欧圏ユダヤ人文化を文学に残そうとしたイデッシュ語作家なのだ。その功績からシンガーは1978年にノーベル文学賞を受賞している。ちなみにシンガーのイデッシュ語での作家名はイツホク・バシェヴィス、ないしイツホク・バシェヴィス・ジンゲル。
シンガーの作品群はその書かれた言語と同じようにホロコースト以前のドイツ・東欧ユダヤ人社会とその文化を主に描いている。そしてその文化の中心となるのは、なんといってもユダヤ教の戒律であり、その戒律を通じて描かれる人々の営みであり、そしてその戒律から生み出されるユダヤ人であることの歴史性とアイデンティティであり、さらにその戒律の禁忌から生み出される背教と戒めの物語なのだ。
それにしてもこの短編集を読んでいて正直、ここまでユダヤ教というものが、古代パレスチナから連綿とその民族的歴史性を固持し続けるものであるとは思わなかった。ユダヤ教の歴史はそれこそ旧約聖書時代まで遡り、その成立以前である紀元前1280年頃のモーゼ十戒まで含めると実に3千有余年、少なくとも2500年以前の暮らしや規律や生きる寄る辺とする物の在り方を頑なに近代まで守り続けていたのだ。それはある意味、現在に残された古代といった様相すらある。それを古色蒼然としたものととるか否かはまた別の話として、少なくとも信仰というものはこのように一つの物事をあくまでも徹底的に信じ、そして守る続ける行為である、ということはいえるかもしれない。だから短編集で描かれる個々の作品の殆どが第2次世界大戦前後のユダヤ人社会を描いたものであるとしても、その社会は数百年前も、数千年前も、やはり少しも変わらずに営まれていたのであろう、と考えると、ユダヤ人とユダヤ教の、ディアスポラに裏打ちされた強固さというものがどれほどのものなのか伺えるというものだ。そしてその頑固なまでの強固さが、現代イスラエルの在り方とその問題にも繋がっているといえるのかもしれない。
個々の作品を紹介することはしないが、物語の傾向は幾つか分かれている。「バビロンの男」「鏡(ある悪魔の独白)」「ティショフツェの物語」「炉辺の物語」「呼び戻された男」「黒い結婚」はユダヤ教の悪霊や悪魔、魔術や生き返りが登場する幻想的な物語。「スピノザ学者」「断食」「ありがたい助言」「屠殺人」はユダヤ教信教そのものによって引き起こされる物語。「ギンプルのてんねん」「ちびの靴屋」「ちびにでかいの」「不浄の血」はユダヤ教を信教することによって生まれるユダヤ人社会の悲喜劇や諍い、事件を描く。ここまではどこか民話的でもありながら、強烈なユダヤ教的世界観が物語の中心を貫いた物語が続く。また、ユダヤ教の固有名詞も頻出し、凄まじいエキゾチズムが生まれている。しかしラスト2作、「ハンカ」「おいらくの恋」は大戦を逃れアメリカ大陸へ渡ったユダヤ人を描き、ここではユダヤ教そのものの存在は鳴りを潜め、むしろ故郷喪失者の哀感を描いた物語と様変わりする。
この中でもっとも気に入ったのはポーランドに住むユダヤ人靴屋の歴史を描く「ちびの靴屋」か。頑固で腕のいい職人である靴屋の親父が主人公だが、彼の子供たちは一人また一人とアメリカへ移住してゆく。例によって頑固者の親父はそんなことなど我関せずといつものように靴職人を続けていたがある日ナチスポーランド侵攻が始まり…というこの物語、映画化すれば絶対面白いものになる気がする。誰か渋いヨーロッパ監督がやってくれないかな。

不浄の血 ---アイザック・バシェヴィス・シンガー傑作選

不浄の血 ---アイザック・バシェヴィス・シンガー傑作選