”知りすぎた男”の恐怖を描く緊迫のエスピオナージュ小説『ケンブリッジ・シックス』

ケンブリッジ・シックス / チャールズ・カミング

ケンブリッジ・シックス (ハヤカワ文庫NV)

キム・フィルビーら5人のケンブリッジ大学卒業生がソ連のスパイだったことが発覚し、英国は大打撃を受けた。だが彼らのほかに、もうひとり同時期に暗躍していたスパイがいたという。歴史学者のギャディスは親友の女性ジャーナリストからこの人物に関する本の共同執筆を提案されるが、その女性が急死し、彼は後を継いで調査を開始する。が、やがて国際情勢を左右する事実が明らかに! 巧妙に構築されたスパイ小説の力作。「二人の巨匠ジョン・ル・カレグレアム・グリーンに比肩する作家だ」(ワシントン・ポスト)

ジョン・ル・カレグレアム・グリーンとも比肩すると評判の本格スパイ小説の旗手、チャールズ・カミングの本邦初訳作品です。タイトルの『ケンブリッジ・シックス』というのは1950年代に発覚した「ケンブリッジ5人組」事件という史実を元にしています。この事件は戦間期から1950年代にかけてイギリスで活動したソビエト連邦のスパイの正体が発覚したというイギリス諜報史上稀にみるスキャンダルで、この5人がケンブリッジ大学出身のエリートであったためにこういった名前が付けられているんですね。現実の5人はそれぞれ亡命したり死亡したりしていますが、この「ケンブリッジ5人組」にまだ発覚していない6人目が存在していたのではないか?というのがこの『ケンブリッジ・シックス』の端緒となっています。しかしこの物語はそういったスパイ事件の歴史など全く知らなくても十分に楽しめます(自分がそうでしたから)。
物語の主人公は歴史学者であり作家であるサム・ギャデス、彼は離婚とそれに伴う養育費の支払いで金欠となり、"売れるルポルタージュ"を書こうと親友の女性ジャーナリストと共同で「ケンブリッジ6人目のスパイ」について執筆しようと軽い気持ちでこの事件に近づきます。しかし、この女性ジャーナリストは突然の急死を遂げ、さらに情報提供者の一人も不可解な死を迎えます。折しも「事件に関わった当事者の一人」とうそぶく謎の老人がギャデスに接近し、「ケンブリッジ・シックス」の情報を小出しにしはじめるのです。そして背後ではイギリス、ロシアの諜報部が暗躍し、ギャデスへの包囲網を狭めていきます。たかだか市井の人でしかないギャデスは、強大なる諜報機関の魔の手に怯え命の危険を感じますが、友人の死を無駄にしたくないという一念から、あえて身を挺し徒手空拳のまま事件の真相を追い続けます。そして遂に辿り着いたその真相とは、ロシア国家それ自体を揺るがすような恐るべきものだったのです。しかし、彼と関わった者は次々と諜報部から暗殺され、ギャデスは見知らぬヨーロッパの町を逃走し続ける羽目になる…というのがこの物語です。
虚々実々、権謀術策の陰謀に次ぐ陰謀が渦を巻き、網の目のように罠が張り巡らされ、何が真実で何が嘘なのか、誰が味方で誰が敵なのか茫として解らぬままギャデスは運命に翻弄されていきます。それはあたかも鏡の国の戦争に巻き込まれたかのような、現実の裏側で進行する影の戦争、誰一人知らない闇の組織との戦いです。二重思考と二重生活、裏と表の社会に生きる諜報員たちが次々と登場し、まるでこの世界は一枚皮を剥くと誰も見たこともない不気味な異世界が広がっているかのようにさえ感じさせます。この物語は、ル・カレに代表するような敵対諜報部同士の息詰まるような諜報合戦を描くエスピオナージュ小説ではなく、「国家さえも揺るがすような、知るべきではない事実を知ってしまったごく平凡な男が巻き込まれる身の毛もよだつスリラー」として突出した面白さを醸し出しています。
中盤までは平凡な男であるギャディスが英・露の諜報機関にただただ欺かれ翻弄される様がじわじわと描かれますが、中盤のある事件をきっかけに物語は急展開、ギャディスも英・露諜報機関も含め全ての計画と陰謀が瓦解し、ここからは予想もつかず予断も許さない緊迫した状況がジェットコースターのように驀進してゆくのです。エスピオナージュ小説は暫く読んでいませんでしたが、この『ケンブリッジ・シックス』には舌を巻きました。ル・カレなどのエスピオナージュ小説好きの方、スパイ映画がお好みの方には是非手にとって読んでもらいたい傑作ですね。

ケンブリッジ・シックス (ハヤカワ文庫NV)

ケンブリッジ・シックス (ハヤカワ文庫NV)