戦慄!変態文学者と妄想人造少女とが繰り広げる陵辱と監禁の猟奇奴隷愛!〜異常映画『血糊色した火花』

ルビー・スパークス (監督:ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス 2012年アメリカ映画)

■理想の女の子が目の前に現れた!ウシシ!

とある作家先生が理想の女の子を主人公とする小説を執筆していたら、その女の子が現実に現れて「あたしはあなたの恋人よ!」とか言い始めるもんだから嬉し恥ずかしさあ大変!という男のパンツの中身の欲望と妄想がそのまんま考えなしに描かれたしょーもないラブコメディであります。

最初はとりあえず「ボクは頭がおかしくなっちゃったんだ!」とパニクる作家先生ですが、超常現象だろうがCIAの陰謀だろうが、マグマの如く熱くたぎる下半身の呼び声には勝つことが出来ません。というわけで「いったいぜんたいなんでこんなことが起こっちゃうの?」などという疑問は一切沸くことも無いまま、なし崩しに二人は同棲を始めちゃうんですな!こんな具合に幸せいっぱい夢いっぱいに過ごしていた能天気な作家先生ですが、理想の女性の筈の彼女が次第に「自分の時間も欲しいの」な〜んて言い始めるもんだから「あんだとゴルァアァ!?ボクチンの理想で出来てる女がボクチンを無視するだとゴルァアァ!?」といきなりの激昂!で、「そうだ、ボクチンが創作したオンナなんだから彼女のスペックをボクチンの思い通りに書き変えればいいんだ!ボクチン頭いい!」と小説内の彼女の性格を変更!それと同時に目の前の彼女の性格も変化!しかし最初は上手くいくと思っていたその企ては、しまいに彼女を単なる自動人形までに貶めてしまうのでありますが!…というお話であります。

自分の理想通りの美少女が目の前に現れて自分と交際してくれる。どうにも身も蓋も無いお話ではありますが、正直、男子として生まれてきたものならば一度は妄想したことがあることなのではないでしょうか。理想の美少女って訳ではなくとも、指咥えて待ってるだけで女子が勝手に向こうからやってくる、なあんてお話は「不動産屋の手違いで同じ家に住むことになった高一の男女」とか「寅柄ビキニの宇宙人美女が突然部屋に居座り始める」とか「空から少女が降ってきた」とか枚挙にいとまがありません。努力しないで濡れ手に粟!という怠惰極まりないまことに嘆かわしい妄想の産物ではありますが、いや妄想だからこそ、自分だけに都合のいい女性関係を物語にしたくなってしまうのであります。ま、普通に考えたら、ンなことあるわきゃねーもんな!ホントの恋愛はメンド臭いしキビシーし傷付いちゃったりするし!

この『ルビー・スパークス』、男子にありがちな妄想を面白おかしく描いた気軽に鑑賞できる他愛もない映画として仕上がってはいるんですが、しかし深く考えるとやっぱりイビツだし薄気味悪い映画でもあるんだよね。一応名目はラブコメなんだろうけど、ここで描かれているのは実はラブとはほど遠いものだし、コメディを装いつつ容易く不気味なホラーへと転化してしまうような内容なんですよ。

■コミニュケーション不在の恋愛映画『ルビー・スパークス

恋愛って基本、コミニュケーションじゃないですか。この映画になぜ「ラブ」が無いのかというと、結局作家先生は妄想少女ルビーとコミニュケーションなんかしていないからなんですよ。しているように見えて作家先生は自分の頭の中にある「理想の彼女とはこういうもの」を的確にトレースしてくれる彼女の様子を楽しんでいるにすぎないんですよ。そしてその彼女が「自分の時間が欲しい」と言った途端作家先生が困惑したのはそれが「理想の彼女とはこういうもの」という条件から外れたことだからなんですよね。

彼女がなんで条件外のことを始めたのかは分かりません。「たまに条件外のことをする」と小説に書かれてあったからなのか、それとも現実に長く生きて彼女に自我が目覚めたからなのか、その辺はこの映画では説明されません。妄想少女に自我はあるか?というのは実際には重要な事だとは思うんですが、映画製作者はそこんところは気軽に素っ飛ばしてくれちゃってます。普通、カップル同士の意見に齟齬があった場合には、話し合って説得するなり歩み寄るなり相手の言い分を認めるなりするのですけれど、この作家先生のやったことはといえばスペックの上書き!つまりはなからコミュニケーションする気なんかないんですよこの作家先生は。自分の言いなりになる相手が欲しかっただけなんですよ。

そういえば澁澤龍彦センセがこんなことを書いておりました。

女の側から主体的に発せられる言葉は、つまりは女の意思による精神的コミュニケーションは、当節の流行言葉で言うならば、私たちの欲望を"白けさせる"ものでしかないのだ。(中略)女の主体を女の存在そのもののなかに封じ込め、女のあらゆる言葉を奪い去り、女を一個の物体に近づかしめれば近づかしめるほど、ますます男のリビドーが蒼白く活発に燃え上がるというメカニズムは、たぶん、男の性欲の本質的なフェティスト的、オナニスト的傾向を証明するものにほかなるまい。

(中略)当然のことながら、そのような完全なファンム・オブジェ(客体としての女)は、厳密にいうならば男の観念の中にしか存在し得ないであろう。そもそも男の性欲が観念的なものであるから、欲望する男の精神が表象する女も、観念たらざるを得ないのだ。要は、その表象された女のイメージと、実在の少女とを、想像力の世界で、どこまで近接させ得るかの問題であろう。
澁澤龍彦 / 少女コレクション序説

結局観念的な恋愛(欲望)対象にしか憧れていなかった男の妄想が具現化したってやっぱり男はそれを観念的な存在としか認めないってことなんです。
だいたいいくら自分の創作物から出現した女子とはいえ、スペック上書きすることで自分の思った通りに好き放題相手を操れるって、もはやそこからは怪奇と猟奇の領域ですよね。それってつまり、相手の意思を無視してSMみたいな調教行為するのといっしょですよね。相手の意思を無視するっていうのは、それは相手を人間だと思ってないからですよね。目の前に血肉を備え意志と自我を持つ一人の人間としての女性が立っていても、それは、作家先生にとっては、モノと変わりない、そして、モノとして扱う、いやあやっぱり異常なお話ですね。そんなわけでこの映画、一見ラブコメに見えてラブ不在、コミニュケーション不在のうすら寒い凌辱奴隷映画だったんですねえ。