ミルトンの『失楽園』を読んだ。

失楽園 / ジョン・ミルトン

失楽園 上 (岩波文庫 赤 206-2)

失楽園 上 (岩波文庫 赤 206-2)

失楽園 下 (岩波文庫 赤 206-3)

失楽園 下 (岩波文庫 赤 206-3)

17世紀に詩人のジョン・ミルトンによって書かれ、イギリス文学の最高傑作のひとつと謳われる作品、『失楽園』を読みました。なぜこの本を手にすることになったかというと、単に「神に叛乱を起こし地獄に堕とされた天使たちが悪魔になって楽園のアダムとイヴをたぶらかす」、というお話をきちんと読んでみたかったからなんですね。神と悪魔の時間を超越した戦いって、いろんな映画や小説、漫画などのモチーフになっているじゃないですか。あと自分、永井豪の漫画『デビルマン』とか『魔王ダンテ』とかとっても好きなんですね。その辺の原典に一回あたってみても面白いんじゃないか、と思ったわけで、イギリス古典文学を極めたい、とか大それたことを考えてたわけじゃないんですよ。それと以前、映画評論家の町山智浩さんが、確かラジオかなんかでクリストファー・ノーランの『ダークナイト』を紹介するときに、ジョーカーの悪逆さに絡めてこのミルトンの『失楽園』を挙げていたのを覚えていたんですね。その時この本を読んだ町山さんは、「悪魔のほうがリアルでカッコいいじゃないか!」みたいなことをおっしゃってて、ああ、そんなふうに楽しめる本なんだ、と思ったんですよ。
さてミルトンの『失楽園』、岩波文庫版で読んだんですが、まず上巻の殆どは神へ謀反を起こし天界の戦い敗れたルシファー=サタンの軍勢が、鬼哭啾啾たる地獄の暗闇の中で、恨み言と虚勢を張りながら、世界の支配者である全知全能の神にいかにして再びまみえるか、その計略を立てる内容が描かれてゆくんですね。神との戦いが、実は一方的な敗退だったことを知っている悪魔たちは、今度は正面から戦うのではなく、神と悪魔の戦いの後に、神が宇宙のある場所に新たに作った【人間】の世界を破壊することで、人間を愛する神に煮え湯を飲ませてやろう、ということになったんですね。悪魔ですから姑息で卑怯な手段はお手のものなんですね。そして地獄の堅牢な扉を突破したルシファーは、【闇】と【混沌】の世界を抜け、アダムとイヴが幸福に暮らすエデンの園に姿を変えて到着します。
ここで面白かったのは、悪魔たち、とりわけルシファーが、冷酷非道悪逆大罪な存在では決してなく、実は、非常に人間的な存在として描かれている、ということなんですよ。人間的な存在、というのはどういうことか、というと、弱さを持ち、その弱さゆえに去勢を張り、嘘をつき、そして自分が自由ではない、ということに憤りを覚え、支配されている、という状況に反感を感じ、それに反抗しようとし、その反抗に失敗して傷つき、呻吟し、恨みを唱え、復讐しようと考え、最終的に負の方向へ負の方向へと走りたがる、それら全ての感情と行動のあり方が、どこまでも人間的だと思えてならなったんですよ。逆に、聖なるものであるはずの神と天使の軍勢、というのは、正しいことや当たり前なことしか言わない、やらない、そしてどうにも権力的な、高圧的な存在であるかのように描かれているんですね。いや、そのように描いたわけではないのでしょうが、キリスト教圏から離れ信仰もない現代の人間である自分からみると、そう読めてしまうんですよ。神とか天使とかいうのはお堅いことばかり述べたがるなんと面白みの無い存在なんだろう、とね。そしてこの悪魔の描かれ方、というのは、実は当時の清教徒革命に身を投じ翻弄され敗れ去った作者ミルトンの心情がその背後に隠されているようなんですね。なにしろ悪魔=非道の存在、と描かれているわけではない部分にこの物語の面白さをまず感じました。
そして下巻では神がいかに天地を創造したのか、という話と合わせ、エデンの園に住むアダムとイヴが、ルシファー=サタンの奸計により神に禁じられていた知恵の実を食べてしまい、それにより神の怒りに触れ、楽園を追放されるまでが描かれます。いわば旧約聖書の世界を描いているわけなのですが、これがまた、「教訓的で抹香臭い聖書物語を読まされている」という感覚とは全然別の、想像以上に胸を鷲掴みにされる物語の展開をみせているのですよ。それは、神の期待を裏切ってしまったアダムとイヴの、その苦痛と後悔、これからの生に待つ果てしない絶望と苦難、これらの感情が、実に生々しく、そして痛々しく描かれているからなんですね。聖書的な、神との契約を破ったものの見せしめとしての原罪、という部分を離れ、人が生きるということそれ自体の、やるせなく、やりきれなく、不条理な側面が、ここには抉り出され、描かれているんですよ。なにより感動的だったのは、イヴが教えを破って知恵の実を食べたことを知ったアダムが、しかしイヴへの愛ゆえに、彼女と共に同罪に落ちるために知恵の実を食べる、というくだりです。知恵の実を食べたアダムとイヴ、という話は知ってはいても、その動機には二人の【愛】が隠されていたのだ、という解釈には非常に切ないものを感じました。さらに神の怒りに触れ、楽園の追放を言い渡され、その子孫にも永劫の苦しみが待っている、と知らされた二人は、一度は死を考えながら、それでもやはり、生きてゆこう、そして、子孫を残してゆこう、と誓うんです。二人は、生は、実は苦痛ばかりなのではない、生きていることは、それ自体が祝福なのだから、だからこそ、生き続けるということは、その祝福を成就する行為なのだ、ということを悟るんですね。そして、楽園を追放された二人は、茫漠たる荒野へ、最初の一歩を記すんです。ある意味このクライマックスは、アダムとイヴの凄惨なるラブ・ストーリーとして完結するんですよ。
生は、やるせなく、やりきれなく、不条理な側面を持つものです。生は、艱難と辛苦に満ち、途方に暮れることばかりが起こりがちです。そうして生きながら、やがて年老い、体が利かなくなって死ぬのです。あるいは、突然の事故や、病気や、そのほかの、想定出来ないあらゆる理由で、人は生半ばして死にます。生は不条理です。宗教とは、その不条理さに理由をつけようとしたものなのでしょう。自分は、信仰を持っていませんし、今のところ、持つ予定もありません。しかし、生の不条理に理由をつけようとした宗教というツールはやはり物凄いものだったのだな、と感じるのと同時に、宗教の非合理性に与する事を善しとしない程度の知識と合理性を持っていたとしても、生の持つ不条理に対して人はやはり無防備な存在でしかない、とも思えるのです。この不条理を理由付けられた生と茫漠たる荒野ばかりが広がる世界で、人はいかにして生きていけばよいというのでしょうか。そして既に、神はどこか遠いところに行ってしまっているんです。楽園の永遠に閉じられた扉の前に立つアダムとイヴの姿は、実は現代に生きる我々の姿と何一つ変わっていないように自分には思えました。でも自分といてくれるあなたがいるのなら、この人生は幾ばくかは素晴らしいものになるかもしれない。そしてそれだけでも、随分幸せなことなのではないか、アダムとイヴの行く末を自分に重ねながら、そんなことも思えた作品でもありました。
――君の生命を愛するな、また憎むな。ただ君が生きる人生を/善く生きよ。長きにせよ短きにせよ、天に許された生を。 「失楽園