わしゃあ責任なんかとりたくない!〜映画『ローマ法王の休日』

ローマ法王の休日 (監督:ナンニ・モレッティ 2011年イタリア・フランス映画)


全世界12億のカトリック教徒の最高位に就くローマ法王が天に召され(アーメン)、新しい法王を選ばにゃならん、と世界各国の枢機卿が聖都ヴァチカンに集まり投票をするんだが、栄えある新法王に選ばれたメルヴィル爺さん(ミシェル・ピッコリ)、なんと「わしにゃあ法王なんて出来ねえずらああ!」と大パニック、そのまま尻に帆掛けて大脱走、大慌てなのはヴァチカン事務広報のお偉方、「なんとしてでもメルヴィルの野郎をとっ捕まえて縛り付けてでも法王の椅子に就かせにゃならん!」とヴァチカンの町を東奔西走、一方【法王がきちんと決まるまでお外に出ちゃいけません。勿論ケータイもペケよ(はあと)】という決まりになってる世界各国の枢機卿の爺さまがた、投票の行われたシスティーナ礼拝堂に足止めを食らいそのまま軟禁状態、暇で暇でしゃあなくてカードゲームしたりバレーボールしたりのグダグダ三昧、それに変な精神分析医が加わって「聖書の内容って鬱病症状のスクツですよね(キリッ」とか勝手なこと言ってるし、逃亡中のメルヴィル爺さんは「自分探しじゃあああ!心の折れたわしは自分探しのセンチメンタル・ジャーニーをするのじゃああああ!」とかなんとか喚きながらヴァチカンの町を徘徊しては市井の皆さんを捕まえて100年ぐらい前の爺さんの夢や希望をブツクサ呟く始末。単なる「ボケの花が咲き乱れている可愛そうな人」だと思われて適当にあしらわれていることに露とも気付かない爺さんの心の旅路の行く末は何処か。爺さんを探すヴァチカン事務局のお偉方はこのまま爺さんを見つけられないとやっぱり鉄の処女とか三角木馬で責めに責められ塩漬けニシンをたらふく食わされた挙句火炙りにあうのか。事件の背後にはやっぱり『ゴッド・ファーザーPART3』に出てきたマフィアに不正融資したヴァチカン銀行総裁とか『天使と悪魔』に出てきた反物質爆弾持ってる秘密結社イルミナティとかロスチャイルドの世界革命行動計画とかなんかそーゆーのが絡んでいるのでありましょうか!?謎が謎を呼び危険が危険を呼ぶジジイ徘徊映画『ローマ法王の休日』の結末やいかに!

…とまあかなり冗談めかして粗筋を書いたが、内容的には多分合っていると思う。それにしても、世間一般には「はあとうぉーみんぐ・こめでぃ」などというユルイ触れ込みで上映されているこの映画、実際のところ、徹頭徹尾ヴァチカンを虚仮にしまくった、大ブラック・ジョーク映画としかオレには思えなかった。

まずオープニング、世界各国のカトリック最高指導者である枢機卿の爺さまたちが賛美歌を途中で間違えながらヨタヨタ歩いているところ、ここから既に『笑い』に持って行こうとしている。ああ、見事に爺さましかいねえんだなあ、と思えてくる。ある種の世界を、総じて殆どの世界を統べてるのは、こういう爺さまばかりなんだなあと、まざまざと見せ付けてくれる。その爺さまたちが集まって新法王を選ぶんだが、こいつらときた日にゃあ皆が皆、「どうか自分になりませんように」とか祈りをあげている始末だ。一つの世界のその頂点にいながら、でもその最高位となって責任は取りたくない、要するに爺さまたちはそう言っているわけだ。皆が皆そうであるとは言い切れないが、これだけの数の爺さまがいれば、権力志向の強い人間が根回しだの選挙活動じみたことの一つもしないわけがないだろう。それがいくら聖職者であってもだ。にもかかわらず、この映画では枢機卿の皆が皆、「責任なんか取りたくないフヌケ」として描かれている。そこがまず強烈な皮肉だ。

そして不幸にも選ばれてしまった新法王は「法王なんかやりたくねえ!」とセーシン的破瓜を起こし逃走する。しかしこれをして「まあこんな優しそうなおじいちゃんを追い詰めるなんて可愛そう…。どんな人だってプレッシャーには弱いんだから、心の休養が必要よねえ」とか同情するべきなんだろうか。世界12億というカトリック教徒のその最高位に選ばれたという人間が、「わしはそんなもん少しもやる気はねえんだよ!」と宣言してしまう、それはつまり、法王ともあるべきお人が、世界12億いるカトリック教徒の皆さんに「お前らのケツなんか拭きたくない」と言っているようなものではないか。結局法王様もまた「責任なんか取りたくないフヌケ」として描かれているのだ。

上下にピラミッド型をした支配・被支配の構造を指すヒエラルキーという言葉は、そもそもがローマ・カトリック教会の階層的な組織構造を指す言葉だったという。もとはギリシア語のヒエラルキア(hierarkhia)=「聖者の支配」から来ているのだそうだ。自分は別にカトリックの政治的構造に関心は無いし、社会のヒエラルキーをぶち壊せ!などと学生みたいにアジる気も毛頭ないのだが、ただ現代においても、カトリックにまつわるヒエラルキーというものは多分強固に存在しているんだろうナァ、程度のことは知りもしないなりに想像できる。カトリック教に限らず、古くからある3大宗教なんていうのは、長大な歴史の中で何も変わらず何も変えることなく行われてきた宗教の"作法"、そして歴史性そのものが権威の拠り所となるのだろう。そしてまた、権威やら威信やら歴史性があるから、人はその宗教を信じる部分があるのだろう。

ところが、この映画ではその権威の頂点にあるべきものたちがその権威自体を否定し、さらには威信など少しも感じさせないグウタラな姿を覗かせる。これを観て「ああ、法王も枢機卿も、私たちと同じ人間なのね」などと好意的に観てしまうのもいいのだけれど、むしろそう見せかけてヴァチカン並びにカトリック教会に「悪意はありませんよ」と安心させ、その裏で「階級社会の頂点にいる連中なんてフヌケですよね」とアッカンベーしてみせている、そんな意地の悪い視点がこの映画に隠されている、と思えたのはオレだけだろうか。しかし、そう考えればこそ、あの唐突な、ポッカーンとさせられるラストが、納得できるものになるとはいえないだろうか。

ローマの休日 製作50周年記念 デジタル・ニューマスター版 ロイヤルBOX [DVD]

ローマの休日 製作50周年記念 デジタル・ニューマスター版 ロイヤルBOX [DVD]