過酷なアラブ世界の中で愛と真理を求めて彷徨う一組の男女の物語〜『Habibi』

■Habibi I、II / クレイグ・トンプソン

 
クレイグ・トンプソンの描くグラフィック・ノベル『Habibi』は一人の少女がある少年と出会い、次に離れ離れになり、そしてまた出会う、という物語である。こんなふうにシンプルに紹介するのなら、それはよくあるボーイ・ミーツ・ガールの物語に過ぎないのだけれども、この『Habibi』は、そのシンプルな出会い-別れ-出会いの中に、凄まじいまでの展開と、恐るべき分量の寓意が、ふんだんに、そして濃厚に盛り込まれているのだ。

いつともしれない時代、中東の架空の国。貧しさから身売りされ、中年男に無理矢理嫁がされた9歳の少女ドドラ。しかしある日中年男は盗賊に殺害され、ドドラは奴隷市場に売られる。そこでドドラは同じ境遇にある3歳の黒人少年ザムと出会い、ドドラはザムを連れて奴隷市場を逃亡する。二人は荒涼たる砂漠の真ん中になぜか遺棄されていた船を見つけ、そこで共に暮らし始める。時が経ち、ドドラは豊かな肉体の女性へ、そしてザムはそんなドドラを一人の"女"として意識する少年へと成長した。だが、ザムはある日、ドドラが今までどうやって二人の食料を手に入れていたのかを知る。それは、ドドラが砂漠をゆく商隊の男たちに春を売っていたからだった。さらにそのドドラは誘拐され、宮殿のハーレムに妾として幽閉されてしまう。ドドラを捜し求め旅に出るザム。そして身も心もボロボロとなったザムを拾ったのは、去勢された男たちの集団、ヒジュラ階級のコミュニティだった。果たしてザムはドドラと再び出会うことが出来るのか。

物語はあたかもアラビアン・ナイトの時代であるかのように始まる。人身売買。奴隷。人は容易く殺められ、瀕死の貧しい者がいるのと同時に世界中の富を集めたかのような貴族階級があった。太古の昔からそのまま存在し続けている遺跡のような町並みがあり、我々の知っているようなテクノロジーは見当たらない。しかし、この物語の舞台は大昔なのかと思っていると、二人の暮らす船にはエンジンが搭載され、砂漠にはパイプラインが走り、その果てには突然ダムが姿を見せる。文化や習俗にしても中東だと思っているとインド風であったりしている。そう、この物語は、時代も、場所も、混沌とした、「いつか、どこか」の世界なのだ。即ち、『Habibi』は、人権だの平等だの、我々の知ることわりの通用しない、しかし、世界にいつも、どこにでも必ずあった、無慈悲な社会環境の中からまず語られるのだ。

その無慈悲な環境の中で、主人公であるドドラとザムは、どのようにしてでも生き延びる、という、ギリギリのサバイバルの中で細々と生を繋ぐ。そんな彼らを支えたのは何か。それは、神話と教義がないまぜになったイスラムの教えであり、そして数秘術と神秘学が教える世界と宇宙の成り立ちだったのだ。

二人が生きざるを得ない残酷で過酷な現実の描写を凌駕するほどに、この『Habibi』には膨大な量のイスラムの教えが挿入され、あらゆる描写に数秘術と神秘学の図説が絡められる。イスラムの教えは人の人生をどのように理由付け、そこにはどのような意味があるのかを教え、数秘術と神秘学はそれと同じように、自らの生きる世界にはどのような意味と理由があるのかを説明するのだ。この『Habibi』で物語られる幾多のイスラム教の逸話は決して教訓主義的な説話ではなく、キリスト教のそれと対比させながら、「ひとつの原初の物語」を紡ぐ。さらに数秘術と神秘学とは事あるごとに数字と文字と文様に秘められた真理を解説する。それらが描かれるページはどれも細微な意匠を施された恐ろしくサイケデリックなグラフィックが踊り、さみだれる雨の一滴一滴、建物を彩るアラベスク模様、砂漠をはい回る蛇の残した跡、それら全ての文様に、アラビア文字の神秘と真理が隠されているさまを説明する。

それらを通して描かれるのは、例えどんなに悲惨で過酷なものであろうとも、人であること、人として生きることには、全て意味があり、そしてこの世界に存在すること、この世界が存在することには、全て意味があり、そして、だからこそ、その悲惨さも、過酷さも、きっと乗り越えられる、なぜなら、全ての【真理】は、【愛】ゆえに、存在しているからなのだ、ということなのだ。あらゆる悲嘆と絶望を乗り越えた果てにある、このあまりにも眩いアレゴリー。物語は、生と死、聖と俗、善と悪、清浄と汚濁、それらあらゆる対立概念を孕み、それらが混沌のスープの中で混ぜ合わされ、そして終局に、男と女という対立項へと辿り着く。人は人であると同時に男と女であり、それは陰と陽であり、二つで一つの和合を生むものだ。そしてその和合を成し得るものこそが、愛なのである。人と世界の神秘と真理を巡る冒険の中で、『Habibi』が見出すもの、それはあまりにもありふれていて、しかし尊い、そんな”想い”なのだ。

Habibi I [日本語版]

Habibi I [日本語版]

Habibi II [日本語版]

Habibi II [日本語版]