「スター・ウォーズ」という名の信仰〜映画『ピープルVSジョージ・ルーカス』

■ピープルVSジョージ・ルーカス (監督:アレクサンドレ・オー・フィリップ 2010年アメリカ・イギリス映画)


日記でも何度か書いたがオレは結構なジジイなので『スター・ウォーズ(以下SW)』は1作目(エピソード4ね)初公開時から全て劇場で観ている。もともとSF小説SF映画も好きだから『SW』にはまらないわけが無かった。だから勿論『SW』は好きだしビデオで買いDVDで買いさらにBlu-rayで買ったぐらいのファンだと言える。それと、オレは新3部作(EP1〜3)も旧3部作(EP4〜6)も両方好きだ。どちらもそれぞれのカラーがあり、甲乙付け難く、「新3部作は旧3部作より劣る」みたいな"旧3部作原理主義"ではない。ジャージャーってそんなに酷くないと思うよ?

『ピープルVSジョージ・ルーカス』は『SW』第1世代とも呼ぶべき"旧3部作原理主義"ファンが新3部作以降のジョージ・ルーカスに苦言を呈する、というドキュメンタリーとして始まる。しかし観ている自分自身はそういった"旧3部作原理主義"ではないから、最初は「新しいものだって受け入れるべきじゃないかなあ」などと思って観ていた。しかし映画は次第に「映画は誰のものなのか?」という命題を提示し始める。いや、実際のところ、映画は監督のものでいいと思う。しかし、『SW』レベルに巨大化したものになってしまうと、「監督のものでいい」とは、あながち言い切れなくなってしまう部分も出てきてしまうものなのかもしれない。確かに『SW』の巨大さ、というのは、既に【映画】の枠組みさえ越えてしまった、いわゆる【現象】として存在してしまっているからだ。

即ちこれは、より正確に言うのなら、「映画は誰のものなのか?」というの命題ではなくて、「【映画】の枠組みを超えて【現象】にまでなってしまったものは、製作した映画監督個人だけのものではないのではないのか」ということになるのだ。その時、当初映画を製作した監督は、その【現象】に奉仕するべきなのだろうか。実際のところ、オレはそうは思えなくて、なぜならやはり、新3部作は新3部作で、そのビジュアルという面においては、ルーカスでなければ作れなかった凄まじい完成度だと思っているし、少なくとも新3部作完結まで、ルーカスには第一級の映画監督としての想像力は残っていたと感じるからだ。そうするとやはり、このドキュメンタリーが描こうとしたものとは反し、"旧3部作原理主義"ファンの「今までのものを今まで通りに、なにひとつ変えて欲しくない」という奇妙な意固地さ、頑固さが問題なのではないかと思えてしまう。

では"旧3部作原理主義"ファンは単なる頑迷な石頭でしかないのか、というと、そう言い切れない部分があるのだ。このドキュメンタリーで描かれる監督ジョージ・ルーカスとSWファンの齟齬はどこにあるのか。作品をどんどん純化し、自らがその脳内で想像した世界がひとつも欠けることなく映像として焼き付けられるべきであるとしてその目指す完璧な映像のためにヴァージョン・アップを繰り返す作品主義のジョージ・ルーカス。ルーカスの創出したファースト・ヴァージョン『SW』に衝撃を受け(そうそれは、脳天をぶん殴られるような凄まじい衝撃だったはずだ)、そのあまりの愛ゆえに聖書を諳んじるが如く聖典として諳んじてしまう、そしてそれを聖典であるがゆえに唯一絶対のものとして同定してしてしまう『SW』ファン。ルーカスと『SW』ファンの齟齬の根源とは、この、それぞれの"作品"というものに対する態度の差なのではないのか。そして煎じ詰めるなら、お互いの動機は、実は作品への愛、という意味では全く一緒ではあるのだ。しかしその両者には埋まらない溝がある。これはまるで、それぞれが愛と調和を訴えながら、お互いは反目しあう、宗教闘争じみた世界ではないか。そう、『ピープルVSジョージ・ルーカス』は実は、『スター・ウォーズ』という作品世界への、【信仰のありかた】を巡るドキュメンタリーだったのだ。

なお、DVDには207分、Blu-rayには272分もの特典映像が収められており、これには、映画でちらりと登場するだけだったファンの2次創作映像も含まれている。玉石混交ではあるが、観ていて楽しい作品も多い。劇場で観られた方もこの特典のためにセルあるいはレンタルでもう一度観られるのもいいかもしれない。


ピープルVSジョージ・ルーカス コレクターズ・エディション [Blu-ray]

ピープルVSジョージ・ルーカス コレクターズ・エディション [Blu-ray]

ピープルVSジョージ・ルーカス [DVD]

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