贖罪の惑星〜映画『アナザープラネット』

■アナザープラネット (監督:マイク・ケイヒル 2011年アメリカ映画)


ある日突然、空にもうひとつの地球が現れる。夜空に月よりも明るく、煌々と輝くその姿に、運転中にも拘らず見とれていた主人公ローダは、追突事故を起こしてしまう。相手の車に乗っていた家族は、父親を残したまま、妊娠中の妻、そしてその子供が死亡。そして4年間の服役から出所したローダは、事故で生き残った男ジョンに謝罪すべく彼を訪ねるが、自分の正体を告げられず、クリーニング・サービス会社と偽りながら、ジョンの生活に次第に関わっていくようになる。そんなある日、ローダは空に浮かぶもうひとつの地球が、自分たちの生活する地球のパラレルワールドであることを知り、そのもうひとつの地球への探査旅行に志願する。もうひとつの地球に、事故を起こしていない自分と、今も家族と幸せに暮らすジョンの姿を見るために。

「たられば」という言い回しがある。あの時、こうしていたら、こうしていれば、今のこの状況は、決してこうはならなかったのに。未来は、もっとずっと、明るく、豊かで、幸福なものだったのに。こうしていたら、こうしていれば、という言い方は、ひとつの後悔であると同時に、本当は、こうじゃなかった筈なのに、という、ある種の現実否定にも繋がってしまう。自分は、自分の生き方に、決して、「たられば」を持ち込まないように生きてこようとしたつもりだ。「たられば」を言い始めた途端に、人の生き方は、惨めなものになる。こうじゃなかった筈の、今よりも十分ましな自分がいて、そしてその自分は、こうしていたら、こうしていれば、絶対なれた筈の自分なのだ。今、こうして生きている自分は、そうしなかった、失敗した自分なのだ。そしてその現実の自分は、こうしていたら、こうしていれば、絶対こうなっていなかった筈の、自分なのだ。

……そうして、過去への言い訳ばかりが積もりに積もり、本当の自分は、本当はこうじゃない、これは本当の自分なんかじゃない、という、本当はどこにも存在しない、「本当の自分」を主張し始める。しかし繰り返すが、「本当の自分」なんて存在しない。今ある自分だけが、今現実に、うなだれ、悲嘆し、怒り狂い、虐げられ、間違い、嘘をつき、嫉妬深く、強欲で、怠惰で、間抜け面で、惨めに生きている自分だけが、真に"本当の"自分でしかないのだ。それが、自分で、それ以上でも、それ以下でもない。そしてもしも、こうしていれば、こうしていたら、と思うのであるなら、それらの現実を変えるのは、未来においてでしか在り得ない。過去など変えられない。変えられるものではない。人が変えられるのは、今の自分と、そこから導き出される、未来の自分だけだ。そして、今の自分も、未来の自分も、変えられも、変える気も無いのなら、人は、黙って現実の自分を引き受けたまま、人にも、自分にも、決して文句など言わずに、生きるしかないのだ。人生とは、そういうものだと思うのだ。

だが、他人を傷つけ、その人生を破壊し、そして同時に、自分の人生も、傷つき破壊してしまった人間は、いったいどうしたら良いのだろう。そういった人たちに、現実を見ろだの、未来を考えろだといった言葉が、いったい何の役に立つというのだろう。後悔なんて意味は無いなどといったところで、なんの励ましになるだろう。どのように償ったところで、その償いが十分になることなど無く、どのように償われたところで、心の傷が綺麗に癒えることなど在り得ないのではないのか。

この映画『アナザープラネット』は、SF映画の体裁をとっているとはいえ、「空に浮かぶもう一つの地球」という映像以外、SFらしい展開は殆ど無いと言っていい。物語は、事故の加害者である主人公が正体を偽って被害者と会い、贖罪の日々を送りながら、いつしか心が通い合ってゆく様を描く。しかし、いくら慰めあおうとも、お互いの生活が元に戻ることなど決して在り得る筈は無く、そして偽った正体をいつまでも偽り続けることもできない。ここには、悲嘆に満ちた現実と、いつまでも癒されることのない未来しか存在しない。

そしてここで「空に浮かぶもう一つの地球」が重要な役割を帯びてくる。そのもう一つの地球では、自分は事故を起こしていなかっただろう。自分の人生は、明るく希望に満ちたものであっただろう。被害者の家族は生きていて、彼らは幸せに生きているだろう。本来なら「たられば」でしかないものが、現実に、自らが見上げる空の向こうの、青く浮かぶもひとつの地球の上で、【実在する】。それを目の当たりすることの、なんと狂おしいことであろうか。そして主人公は、最後のなけなしの希望にすがって、「空に浮かぶもう一つの地球」に行こうとする。その主人公の行動は、ラストに、なにがしかの結果として描かれるのではあるが、その、ある種の"ハッピーエンド"は、本当に"ハッピーエンド"なのだったろうか。

「ここではないどこか」で、私の夢は叶えられる。「ここではないどこか」で、私は幸せになれる。しかし逆に言えばそれは、今いる、今生きているこの場所では、私は、決して、絶対に、夢を叶えることも、幸せになることも、出来ないということなのではないのか。そして、「ここではないどこか」というのは、他ならぬ「空に浮かぶもう一つの地球」なのだ。悲嘆に満ちた現実と、いつまでも癒されることのない未来しか存在しない世界、しかしその世界の空の上に、あり得ない筈の、【救済】が、ぽっかりと浮かんでいる。そしてその【救済】は、この現実世界に生きる者には、本当なら決して手の届かない、「ここではないどこか」にしか存在しない。それならばそれは、果たして【救済】と呼べるのか。しかし、それでも人は夢想してしまう、こうでなかった自分と、こうでなかった人生を。【救済】へと、いつか手の届く日を。だからこそ映画『アナザープラネット』は、どこまでも切なさに満ちた作品なのだ。