『松井冬子展 世界中の子と友達になれる』に行ってきた


先日は横浜美術館へ『松井冬子展』を見に行きました。松井冬子さん、全く知らない画家の方だったんですが、横浜美術館のホームページで展覧作品を眺めてみると、幽霊や臓物を晒した女、狂女、奇怪な犬や鶏、暗く艶かしい花の絵など、怪奇でグロテスクな、物凄く薄っぺらく言うとホラーチックな、そんな絵を描いてる方だったんですね。しかし、ただ薄気味悪いだけではなく、その絵はとても美しく、そしてしっかりとした美術的な素養の上で描かれたものなんですよ。一歩間違うと扇情的なだけの露悪趣味で終わってしまう題材を、とても上手く芸術作品としてパッケージしている、その上手さと言うのは、作者の持つ情念、と言いますか、情念の表出、と思わせるものの描き方のコントロールがとても巧みだと思うんですね。
自分は個人的に、情念的な表現をあまり好まないのですが(むしろ、音楽でも小説でも、情念の束縛から開放された、否定した、または対象化した作品、というのが好きなのですが)、この松井冬子さんの、一見、情念にまみれた、それも、強く女性的な情念に溢れた作品と言うのは、自分にとって嫌悪してしまいやすいテーマであるにも拘らず、非常に興味深く見てしまった、そのこと自体がある意味面白かったと言うのありますね。松井和子さんの描く作品のタイトルは、ひどく観念的で、そういった観念性も自分はとても嫌悪しているものではありますが、それでさえも何か納得させられてしまう、作品を見ている自分をねじ伏せてしまう、そういった部分も、自分にとって不思議な感覚でした。
しかし、松井冬子さんのその観念性は、作品の中では、【臓物】という、とても具体的な物体として描かれているんですよ。松井作品で描かれる【臓物】は、作者自身の生の中にあるもやもやした観念性の具現化ではないかと思うんですね。自らの観念性が、【臓物】へと形を変えて表出している、そういった目に見える分かりやすさが松井作品にあるんですね。観念的なものを観念的なまま、情念を情念のまま描くのではなく、【臓物】という具体的なものとして描く、または【幽霊】という一歩間違うと下世話でどこか卑近なものとして描く、そこに作者の作品を描く上での戦略的な創作手段を感じるんですよ。ただ情念を垂れ流しているわけでも、【臓物】や【幽霊】という下世話な煽情性にのみ頼っているわけではないということなんですね。つまり松井作品は情念的にとられるような絵を描きながら、その情念をそれとわからないように対象化しているんですね。その辺の上手さがやはり芸術、ということなんでしょうね。
見る者としては、少なくとも自分は、やはり最初は【臓物】【幽霊】【死】などの生々しい具体性から松井作品に触れてしまうのですが、そこから逆に作者の観念性といいますか、作者が描き出したいものの本質を考えたくなってくる、そういう上手い構造を持った絵だと思うのですね。だから作品からは、逆に作者の理性が感じられたりもするんですよね。その理性の裏打ちとなるのが、展覧会でも並んでいた膨大な数の鉛筆による下書き、デッサンであり、それが精緻であればあるほど、それを元にして描かれた作品群が深い観察によって描かれた、実に理性的な絵だということが分かっても来るのですよ。
横浜美術館『松井冬子展 世界中の子と友達になれる』特設ページ