駆け落ち/失踪 (5回連続・第4回)

オレはもうNのことが分からなくなっていた。Nは例によって「部屋を探す」「仕事を探す」などと言っていたけれども、最初の一週間の、あのまるで手応えの無いやりとりに、オレはNを信用する気をすっかり失ってしまっていた。Nも多分、もうどうしていいのか、分からなくなっていたのだろう。彼はただひたすら、自分の現実を見る必要の無い逃げ場を探して、あてども無く右往左往し続けていただけなのだろう。逃げて逃げ続けていれば、ひょっとしたら、自分と自分の愛する彼女とが幸せに暮らせる、夢のような場所に辿り着けるのかもしれない、彼は本当にそんなふうに思っていたのだろうか。それとも、なにもかもが駄目になってしまうことを確信しながら、それでも、それを先延ばしにするためだけに、ひと時でも長く彼女と居ることのできる時間を得るためだけに、自分を騙し続けて破滅へとひた走っていたのだろうか。

オレが遂に我慢しきれなくなったのは彼らが再び部屋にやってきて3日目のことだった。その日は土曜だったか日曜だったかでオレの仕事が休みであり、いつもよりオレたちは遅い時間に起き出していた。3人でコーヒーでも飲もうかという段になり、Nが一丁前な旦那様気取りでフィリピン娘に「コーヒー淹れてよ」などと命令していたあたりからオレの苛立ちはふつふつとたぎり始めていた。そしてガールフレンドの淹れたコーヒーを弛緩した顔をしながら美味そうにズルズルと啜り、合間にブハァブハァと吐息を漏らしては呆けている姿にオレは我慢ならなくなってきていた。こいつは一体何様なんだ?いったいどうしたらこんな状況で、こんなに暢気な態度を取ることができるんだ?

「もういい加減にしろ」まだ中身の入ったコーヒーカップを床に叩き付けオレはNに怒鳴った。「いったいいつまでここにいるつもりだ?ずっとか?ずっとなのか?ずっとこうしているつもりなのか?だけどオレはもう願い下げだ。お前が出ていかないのならこのオレが出て行く」オレはNにそう吐き捨てるとバタバタと洋服を着始めた。オレの怒号に凍りついていたNはもう自分に居場所が無いことをやっと悟ったようだった。そして蒼褪めた顔でフィリピン娘を促すと、無言のまま身の回りのものを鞄に詰め始めた。しかし部屋を出るのはオレのほうが早かった。部屋を出る時オレの目にちらりと入った、荷造りをするNの姿は、どこまでも惨めそうに見えた。そしてそれが、Nの姿を見る最後となった。

街をぶらつきながらイラついた気分を沈め、夕方自分のアパートに帰ると、既にNとフィリピン娘は姿を消していた。部屋には彼らが新たに買い足した鍋や食器がそのまま残されていた。オレのトレーナーが一着無くなっていたが、多分間違えて持っていってしまったのだろう。オレは自分の部屋の真ん中で、なにか砂でも噛んでいるかのような、遣り切れない気持ちを抱えたまま、一人立ちつくしていた。書置きは無かった。

Nがオレのアパートから消えて1年以上経った頃、オレはようやく、Nの弟Yに、Nの消息を聞くために電話をかけた。それまで気になっていなかったわけではない。ただ、Nとのこの一連の出来事が、自分にとって、あまり触れたくない出来事だった為に、できるだけ忘れた振りをし続けていたかったのだ。

Nがその後どうなったのか。オレの部屋を出たNとフィリピン娘は、やはり弟Yのアパートを訪ねたのだという。そしてそこでやっと諭され、Nはフィリピン娘と別れることを承諾する。不法滞在者のフィリピン娘は母国に強制送還されることとなったが、出国まで、彼女のような立場の人間が収容される施設に1週間ほど拘束されていたのだと言う。送還の日まで、Nは施設の彼女の元へあしげく通い続けたが、「荷物を盗まれた」「あなたがいなくて寂しい」と漏らす彼女に、Nはとても心を痛めていたのらしい。

そして送還の期日がやってきて、Nとフィリピン娘は別れる事となる。その後Nは東京のどこかの街のアパートをあてがわれ、親戚の計らいで新しい職に就くが、いつも心ここに在らずと言った風情で、結局は長くは続かず、それからも職を転々としていたのだと言う。その頃のNは、誰が見ても、魂の抜け殻のようだったという話だ。その最中にもフィリピン娘への未練は捨てきれず、フィリピンへ度々送金していたらしいことが後に分かった。そのうちNは両親の知らぬ間に住んでいたアパートも引き払い、行方知れずとなる。一度、関東のどこかのキャッシュ・ディスペンサーから、いくばくかの金を引き出した記録が両親の元に届き、それがNの最後の足跡となった。Nは、今度こそ、本当に、失踪したのである。

(続く)