汚染事故の後遺症により四つ足で生きる青年の物語〜『アニマルズ・ピープル』

■アニマルズ・ピープル / インドラ・シンハ

アニマルズ・ピープル

アニマルズ・ピープル

スラム街の人々から“動物”と呼ばれる青年。インドのカウフプールに住む彼は、赤ん坊の頃に巻き添えとなった汚染事故の後遺症で、四本足での生活を送っていた。「おれはかつて人間だった。みんなはそんなふうに言う」と“動物”はうそぶき、その数奇な人生を語りだす。育ての親であるフランシかあちゃんとの生活、愛しい女子大生ニーシャやアメリカから来た美人医師エリとの出会い、そして汚染事故を起こした「カンパニ」と戦う個性的な仲間たちとの波瀾の日々を―世界最悪と言われた実際の汚染事故を下敷きに、みずからの不遇と容姿に苦悩する青年の生き様をユーモラスに描き上げる傑作長篇。コモンウェルス賞受賞作、ブッカー賞最終候補作。

ボパールはインド中部にある人口143万人の都市である。1984年12月2日深夜、このボパールで稼動する化学工場から有毒ガスが漏れ出す事故が起こり、夜明けまでに2000人が死亡、15万から30万人の人々が被害を受けた。そしてその後様々な要因により1万5千〜2万5千人の人々が死亡したとされている。世界最悪といわれるボパール化学工場事故である。現在も汚染物質により近隣住民は健康被害を受け続け、工場を管理していたアメリカ企業、ユニオンカーバイト社への訴訟や責任問題は未解決のままだという*1
インド人作家、インドラ・シンハの小説『アニマルズ・ピープル』は、このボパール化学工場事故を題材に、街の名前や企業名を全て架空のものに差し替えて描いたフィクションである。主人公の名は"動物"。彼は幼い頃化学工場の爆発事故により流出した毒物で家族を亡くし、自らも背中が曲がってしまうという後遺症を残していた。背中の曲がった彼は四つんばいで歩くしかなかった。動物のように這って歩くから彼の名前は"動物"だった。そして"動物"は、人間の名前なんか欲しくねえ、俺は"動物"という名の唯一無二の存在なんだとうそぶき、最底辺のスラム街で雑草のように生きていた。
物語はこの"動物"を中心に、彼が憧れる女子大生ニーシャ、ニーシャが思いをよせる活動家青年ザファル、"アムリカ"からやってきた女性医師エリ、死んだ両親の代りに"動物"を育ててくれた尼僧"フランシかあちゃん"、そして街の多数の人々が登場し、不具として生きる"動物"の日常、そして20年前汚染事故を起こしたまま補償すらしない"アムリカ"企業"カンパニ"との戦いを描いてゆく。"動物"はニーシャ恋しさのあまりいつもニーシャといる活動家青年ザファルとも行動を共にするが、本心ではザフィルが憎たらしくてたまらない。そんな中、"アムリカ"から化学工場被害の後遺症に苦しむ人々を助けるという名目で白人女医師エリが街に訪れ診療所を作るが、活動家青年ザファルはこれを"カンパニ"の事件責任隠蔽工作のひとつと考え、人々に診療所のボイコットを命令するのだ。ド助平な"動物"はこのエリにも接近し、自分の性欲と活動家青年ザファルの命令の板ばさみになって苦しんでゆくのだ。
汚染事故や不具を描きながらもしかし物語は暗く湿っぽいものではない。逆にインドの太陽のようにギラギラと明るく強烈な生命感とはち切れんばかりの喜怒哀楽に溢れた実に情緒豊かな物語となっており、そしてそれが"動物"のむき出しの感情に満ちた口調で語られてゆくのだ。主人公"動物"は決して品行方正な人物ではない。言葉使いは下品で乱暴で、いつもひねくれた口をきき、様々な感情がいつも胸の中でとぐろを巻き、しかも20代前後の青年には誰でもあることだが、性欲にみなぎっていて、好きな女性にいつもくよくよくよくよした挙句(そう、彼の自分の不具の一番の大きな悩みは、「女性に相手にされない」という事なのだ)、女性の部屋の覗きはするわ覗きながらオナニーはするわ恋敵には薬は盛るわ、なんというか煩悩の塊のような青年だ。しかしそれと同時に、嘘をつきながらもそれに対して悶々と悩み、「しゃーねーだろ」と投げ遣りになったかと思えばそんな自分が許せなくなってしまったりする。"動物"という名にも拘らず、彼は、どこまでも人間的な存在として描かれてゆくのだ。
そしてこの"動物"の悩みや彼の生い立ちは、とりあえず健常者である我々と、実はなんら変わりないものであるともいえるのだ。例え五体満足であろうと、やはり人は自分の見てくれや経済状態や社会的立場について思い悩むことはあるだろうし、それに対して恨みや悲しみや諦めの感情が、決着も付かないまま心の中でどろどろととぐろを巻くことなど誰もが体験したことのあるものではないか。"動物"は不具だから特別なのではない、不具であろうともやはり我々と同じ理由で思い悩む、そして不具であるからこそ、"動物"は限りなく人間的な感情をより生々しく物語の中に刻み付けるのだ。不具である悲しみや苦しみや怒りを理解できるなどとは言わないが、悲しみと苦しみと怒りの根源は、人はみな同じところにあるということなのだ。だからこそこの物語を読む者は、"不具という他者"ではなく、自分の中の不具(即ち自分の見てくれや経済状態や社会的立場など)から主人公に共感するのだ。
"カンパニ"との闘争が熾烈化してゆく後半の絶望感と、それに対する民衆の怒りが爆発するクライマックスの混沌は、物語の中でも「黙示録」を例えに出すほどに凄まじくもまた哀しく、痛々しい。様々な思惑の中で、"動物"が選択したこととは何か。物語はインドの灼熱の太陽の下、熱く煮えたぎりながら結末へとひた走ってゆく。この間読んだ『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』も凄かったが、この物語も読んでいて恐ろしくガツンときた。文学の力、というものを感じさせる物語だった。どこか先細りしていくような欧米文学を読むよりも、こういった第3世界の文学は生命感が溢れていて素晴らしい、そんなことも思った小説だった。お勧めです。