日本の古典怪談映画を観た〜その2『雨月物語』

雨月物語 (監督:溝口健二 1953年日本映画)


雨月物語』は上田秋成によって江戸時代後期に著された怪異小説集だ。この小説も、小学生の頃、子供向けに抄訳された本で読んだことがある。その後もTVで映像化された作品を幾つか観た筈だ。なにぶん子供の頃に読んだものだから、それぞれの短編の筋を全て覚えているわけではないのだが、「吉備津の釜」や「蛇性の婬」あたりの有名な作品は、本当に怖かった覚えがある。

この映画『雨月物語』は1953年の作品となる。まだ白黒映画の時代の作品だ。監督は溝口健二黒澤明小津安二郎と並ぶ日本映画の巨匠ということなのだが、いかんせん不勉強なオレは溝口の映画を観たのはこれが始めてだったりする(ついでに言っちゃうと小津の映画もまともに観たことがなく、さらにバラしちゃうと黒澤の映画ってあんまり好きじゃなかったりする。スマン。本当にスマン)。出演は京マチ子水戸光子田中絹代森雅之、小沢栄らで、非常に評価の高い作品らしく、海外でも1953年ヴェネツィア国際映画祭「銀獅子賞」、エディンバラ映画祭においてデヴィッド・O・セルズニック賞、米アカデミー賞衣装デザイン賞ノミネート、ナショナル・ボード・オブ・レビュー「経歴賞」の受賞・ノミネート歴があるらしい。

戦国時代、北近江(現在の滋賀県)の山奥の村で陶器を作って生活する二組の夫婦がいた。既に戦火は村にまで迫っていたが主人公・源十郎は金欲しさに危険を顧みず町へ陶器を卸しに行こうとしていた。その従弟・藤兵衛も町へ出て侍となり、立身出世することを夢見ていた。妻たちはそれを押しとどめようとするが、二人はそれを押し切り出掛けてしまう。そして二人の出掛けた城下町で藤兵衛はひょんなことから侍になってしまい、源十郎は貴族風の美女から沢山の注文を貰い、その女の屋敷まで届けに行くと女から誘惑されてしまう。しかし、その女は実は亡霊であり、源十郎は知らずに生気を吸い取られていた。一方、源十郎の妻・宮木は野武士に襲われ命を落とし、藤兵衛の妻・阿浜は遊女に身を落としていた。物語は原作の「浅茅が宿」と「蛇性の婬」を脚色したものである。

雨月物語』の原作から怪異譚を想像していたし、確かに死霊や亡霊が現れ主人公を惑わせていたりはするけれども、物語はむしろ、金儲けや功名心から家庭をないがしろにした男たちが、最後に家族の大切さに気付く、といったことを描いたものなのだろう。亡霊から逃れ、「やっぱり家族が一番だ」と家に帰った源十郎を迎えたのが、やはり亡霊となった女房だった、という結末はあまりに物悲しい。そしてその女房も、源十郎にあれほどないがしろにされながらも亡霊の姿で優しく迎える、というのも、どこか切ないものを感じる。歴史的に見るとこの映画が制作された1953年というのは、1945年の敗戦間もない頃であり、手元足元のものを顧みず戦争へと突っ走ってしまった男たちへの哀歌と取れるのと同時に、1950年代の朝鮮戦争特需から高度経済成長へとなだれ込む日本が、再び家庭や愛する者をないがしろにし始めることへの監督・溝口健二の憂慮があったのかもしれない。

ただ、この『雨月物語』が教訓主義的な作品であると言いたいわけではなく、怪異譚としての魅力も確かに兼ね備えている。自分が特に恐ろしかったのは、亡霊が現れる場面ではない。戦乱の中、売り物の陶器を町に届けるため、二つの家族が危険の少ないであろう川を船で渡ろうとする場面が、自分には一番恐ろしかった。川には霧が立ち込め、見通しは定かではなく、前後不覚のまま水面を進む船が、現世に存在するのではなく、このまま黄泉の国へとたゆたっていくかのように見え、その非現実感が、どこまでも不安げで、恐ろしかったのだ。『雨月物語』は、こういった幽明の狭間を描き、おぼろげで不確かな世界へ、観る者を連れ出してゆくのだ。

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改訂版 雨月物語―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

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