『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』はBanksyの仕掛けた壮大なフェイクか?

■イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ (監督:バンクシー 2010年アメリカ・カナダ映画)

I.

ストリートアートとかグラフィティとかいうものが、暴走族の落書きと何が違うのかよくわからなかった。アートだかなんだか知らないが、あんなものアパートの玄関に描かれたら迷惑だし、ああいうのが沢山描いている通りなんか歩きたくない。特に日本で描かれているようなものは、海外の文化をまねっこして粋がっている以上の積極的な意味を感じなかった。しかしちょっくら調べたら、単なる落書きはタギングなんぞと呼び、なんぼか工夫してあるような落書きになっちゃうとグラフィティとかストリートアートになるんだそうだ。まあどちらにしろつまらなかったが。
しかしBanksyやShepard Fairey、WK Interactのストリートアートを初めて見たときは、それまでの認識を改めなければならなかった。彼らのやってることは、単なる落書きを超え、意識的に成されている「何か」だったのだ。その「何か」とは【批評性】ということができると思う(あんまり関係ないかもしれないが、ロックとは何か?という命題があって、それの答えも【批評性】なのだと思う。Banksyのストリートアートを「ロックだ」とか「パンクだ」とか感じる人が多いのは、そういった理由なのだ)。Banksyの作品は("作品"って呼び方も実は妙な居心地の悪さを感じるのだが)、「そこにある」「そこに描かれている」ことに理由がある。例えばBanksyがイスラエルパレスチナ分離壁に描いた"壁の向こうが見える風穴"の絵を思い出して欲しい。それが普通の壁に書かれていたら単なる長閑な絵でしかないが、分離壁に描かれることで非常にメッセージの溢れる作品と化すのだ。そしてそのメッセージこそが、Banksyの持つ【批評性】ということができるのだ。

II.

映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』は、このBanksyの手によるストリートアートについてのドキュメンタリーだ。しかしBanksyの作品を沢山紹介してくれるBanksy大全みたいな映画なのかな?と思って観ると肩透かしを食らう。その原因となるのがグラフィティ・アーチストの追っかけをやっているティエリー・グエッタの存在だ。自称"映像作家"のこの男は、グラフィティ・アーチストたちの映像を撮りまくっているうちに、Banksyの存在を知る(グラフィティの追っかけやってるくせにそれまで知らなかった、っていうのが妙だが)。グエッタは幸運にもBanksyと知り合うことに成功し、彼の信頼を勝ち得たばかりか、調子に乗って自分もストリートアートやってみようじゃないか、と思い立つ。グエッタは“MBW(Mr.Brain Wash)”と名乗り、個展を開くがこれが大成功、一躍ストリートアートの寵児となる。しかしその作品というのが実にお粗末で、これまで追っかけしてきたアーテイストや有名ポップアート作家の単なる模倣の域を出ていない。そんなクソ作家の作品と、それを喜んで持ち上げるファンたちに、Banksyが「困ったもんだなコリャ」とかなんとか言って映画は幕を閉じる。
そのまま素直にこの映画の描くものを受け入れるならば、アーチストとそれを取巻くハイプの虚構性や胡散臭さ、才能が無くても一朝一夕で有名人になれちゃうストリートアートのオリジナリティというものの脆弱性、などなど、のことについて訴えている映画に見えるのだが、しかしオレ自身は映画を観ていて途中からなんか変だな、と思えてどうしようもなかった。なんといってもこのティエリー・グエッタなる男が、まるでアーチスト、ないしアーチストに興味を持つような男に見えなかったのだ。にもかかわらず、Banksyが酷評したグエッタ編集の映画は、イビツではあったが技術的であったと思うし、グエッタ製作のクソ作品は、あからさまにクソであるがゆえに逆にもうひと回り巡って奇妙に意図的なものを感じる。だいたいグエッタが足を捻挫したその一部始終がわざとらしくきちんとフィルムに収められているのに、彼が実際にアート製作に関わっている映像はお座なり程度にしか写されない。…ひょっとして、このグエッタなる人物は実際には存在せず、この映画自体が世間を巻き込んだBanksyの壮大なジョーク=作品の一つなんじゃないのか?

III.

そう、作ったのはなんと言ってもあのBanksyだ。【批評性】こそがBanksyのアーチストとしての本質であるなら、単なる「ストリートアートの映画」を撮るはずが無い。それがグエッタなる男を描く結果となったかもしれないが、それだけでは批評として直接的過ぎBanksyの流儀から外れているように感じる。するとこれは映画の構造自体に【批評性】を加えた、もっと【メタ】な構造を持った映画なのではないのか?そしてその中で、グエッタとその作品は、グエッタ本人も含めてBanksyの"作品"なのではないか。匿名性というアイコンを守り続けながら作品を生み出すBanksyと、作品など何も世に認められていないのに「Banksyお墨付き」というブランドバリューに満ちたアイコンでデビューしたグエッタという存在は、実に分かりやすい対比性を持っていないか。そのあからさまな対比性の中でストリートアートを世に送り出し、世間の評判を見る、という行為こそが、Banksyの意図した【批評】行為による"作品"なのではないのか?何度も言うか、だってこれはBanksyの映画なんだぜ?
そんなことを思いながら劇場を後にしたが、調べてみるとオレと同じように【Banksy陰謀説】を考えている人はいるようだ。「グエッタに対して訴訟が起こったからグエッタ本人説が正しい」と言っているサイトもあったが、そんなもん、常に逮捕や訴訟の危険を背負ったストリートアートに身を賭けていたBanksyにとっては、想定内のことではないか。まあ勿論、何が本当なんて分かりはしない。そして、分かりはしない、ということすらBanksyの思惑通りといういうことなのだろう。だとするとこの映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』、相当人を食った作品だといえるし、また、実にBanksyらしい映画だな、と思えた。

なおこの映画、公開されたばかりだが自宅TVで視聴出来るビデオ・オン・デマンドを行っている。劇場で観れない方はこちらを利用してもいいかもしれない。
RISEオンデマンド

Wall and Piece

Wall and Piece