■ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ (監督:サム・テイラー=ウッド 2009年イギリス・カナダ映画)
I.
ビートルズ世代というほど年寄りではないが、自分はビートルズがまだ十分カリスマ的な存在だった時代の生まれだ。中学の時とても仲のよかった友人にはビートルズのアルバムのみならず4人のソロアルバムを殆ど揃えているという超マニアがいて(なんとジョンとヨーコが20分以上お互いの名前を呼び合うだけ、という曲の収められた『ウェディング・アルバム』まで持っていた)、彼ほどではなくともビートルズ好きの人間が自分の周りには何人かいた。かく言う自分はそれほどはまらなくて、まともにアルバムで聴いていたのは『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』と『アビイ・ロード』の2枚だけだった。
ビートルズのメンバー、ジョン・レノンが射殺されたのは自分が高校3年の時だった。冬だった。TVではあちこちの局が哀悼の意を伝え、ラジオでは深夜を過ぎてもレノンの曲を流し続けた。自分もショックだったが、それよりも思ったのは、熱狂的なビートルズ・ファンだった中学時代のあの友人が、今一体どんな気持ちで過ごしているのだろうという事だった。丁度大学受験が目前に控えていた時期だったし、かなり難関な大学を目指していた彼に、ジョンの死は大きなダメージを与えてはいないだろうか、何故かそんなことを気に掛けていた。
『ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ』はそのジョン・レノンの青春時代を描いた映画だ。それもビートルズ結成前、彼が初めてロックン・ロール・ミュージックと出会った年齢の頃を描いている。そしてこれが予想外のドラマを見せる佳作だった。ビートルズ・ファン、レノン・ファンのみならず、彼と彼のバンドに何も興味の無い人が観ても、一つのドラマとして非常に面白く観ることが出来る作品に仕上がっているのだ。
II.
物語の核となるのはジョンの二人の母親の存在だ。映画のジョンはまだ16歳、彼は物心ついた時から伯母のもので育てられていたが、あることがきっかけで本当の母親と巡りあう。それからというものジョンは伯母と母という二人の母親の間を行き来しながら生活するようになる。そしてある日、ジョンはなぜ自分が本当の母から引き離され、伯母のもとで生活しなければならなかったのかを知ることになり、激しく苦悶するのだ。この一人の少年、二人の母、という物語設定がいい。勿論事実であったのだろうが、物語として観ても実にユニークだ。どこかしらアメリカのインディペンデント映画のテイストさえ感じる。
ジョンを幼い頃から育てていた伯母の名はミミ、いかにもイギリス女といった風情をかもし出す彼女は非常に厳格な態度でジョンを育てていたが、その厳しさの裏からはジョンへの溢れんばかりの愛情が手に取るように伝わってくる。そしてジョンの生みの母の名はジュリア、自由奔放であたかも少女のように振舞う彼女は優しさと弱さの同居した不安定な女性だ。しかしジョンを手放しで受け入れる彼女の愛情は、ジョンにとって大きな安らぎであったことは間違いない。ミミは保護者という自らの立場を理解してジョンを最大限に庇護し、ジュリアはひたすら一人の母としてジョンに最大限の愛を与え続ける。まだ子供のジョンにとってどちらを選ぶかといえば生みの親でありどこまでも自分を甘やかせてくれるジュリアだろう。そしてジョンに音楽の楽しさを教えるのもジュリアであり、ジョンが最終的にビートルズ結成へと到るのは彼女の存在がとても大きかった筈だ。ジュリアとジョンの関係は映画ではまるで恋人同士のように濃厚なものとして描かれ、実は観ていて変な方向へとテーマが変わらないかとヒヤヒヤしたぐらいだ。このミミ(クリスティン・スコット・トーマス)とジュリア(アンヌ=マリー・ダフ)を演じる二人の女優がとてもいい。逆にレノンを演じるアーロン・ジョンソンは精悍すぎてジョン・レノンの内省性とちょっとそぐわないイメージがしたのは残念だ。
III.
日本人にはよく判らない部分ではあるが、ここにはイギリス階級社会の中で引き裂かれるジョンの姿というものも存在する。ミミの生活ぶりはイギリスのミドル・クラスのものであり、ジュリアのそれはワーキング・クラスのものだ。イギリス階級社会において階級間の交流は非常に限定されているということだが、この二者の中で生きることになったジョンは当然そのアンビバレンツに悩み葛藤したことだろう。それは社会というものを見る目にも影響しただろう。その元となったのが《母親》という、成長期の人格形成に最も影響を与えるものであればなおさらのことだ。ジョン・レノンの音楽の源流となったのはこの引き裂かれたアンビバレンツと漂泊するアイデンティティであり、それが後に歴史に残る偉大なるロック・グループ、ビートルズのロックン・ロール・ミュージックへと昇華したことは想像に難くない。
音楽に目覚めたジョンはバンド活動を開始し、その中で、まだ幼いポール・マッカートニーやジョージ・ハリスンと出会うことになる。これら後のビートルズ・メンバーとジョンが出会うシーンはどこまでもスリリングだ(残念なことにリンゴ・スターとの出会いまでは描かれないが)。こういった、稀代の名バンドが誕生する瞬間を目の当たりにすることが出来るのもこの映画の醍醐味だ。映画は、ジョン・レノンがビートルズ解散後に発表したソロ・アルバム、『ジョンの魂』のオープニングを飾る名曲、『マザー』で幕を閉める。映画の中では決して言葉に出されなかったジョンの母への心情が、『マザー』の歌詞の中で歌い上げられ、観る者は心に深い余韻を残すことだろう。
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