緑の家 / M.バルガス=リョサ

緑の家(上) (岩波文庫)

緑の家(上) (岩波文庫)

緑の家(下) (岩波文庫)

緑の家(下) (岩波文庫)

インディオを手下に従えて他部族の略奪を繰り返す日本人、アマゾン奥地の村の尼僧院で暮らすインディオの少女、砂の降りしきる町に流れ着き、娼館「緑の家」を建てる盲目のハープ弾き……。広大なペルー・アマゾンを舞台に、さまざまな人間たちの姿と現実を浮かび上がらせる、物語の壮大な交響楽。現代ラテンアメリカ文学の傑作。(全2冊)
内容(「BOOK」データベースより)
町外れの砂原に建つ“緑の家”、中世を思わせる生活が営まれている密林の中の修道院石器時代そのままの世界が残るインディオの集落…。豊饒な想像力と現実描写で、小説の面白さ、醍醐味を十二分に味わわせてくれる、現代ラテンアメリカ文学の傑作。

ペルー、アマゾン川流域の町々とそれを取巻く広大なジャングルを舞台に、そこで生活しまた行き交う様々な人々の、数十年に渡るドラマを描く大河作である。その中では幾つかに分かれた別々のドラマが交互に物語られ、それらのエピソードが最後に大きな一つの物語となってゆく。それはインディオの集落から引き離された少女の成長の物語であり、砂漠に娼館を建てた流れ者の男の行く末であり、官憲に追われアマゾンの奥地でインディオと暮らす男の話であったりする。表題である『緑の家』とは砂漠の中に建つ娼館、そしてその後町中の酒場となる建物のことだが、これは物語の象徴ではあっても中心的な舞台というわけではない。

しかしこの物語をおそろしく特異なものにしているのはその構成だ。物語られるそれぞれのエピソードは時間軸に沿って物語られてはいない。それだけならよくある手法だが、さらにそのバラバラのエピソードがいつ起こったものなのか明らかにされない。そしてエピソード同士の時代がどう前後しているのかが分からない。さらに継ぎはぎになったそれらエピソードが語られている最中にも突然なんの注釈も無く別のエピソードが挿入され、物語っていたはずの主体がいつの間にか別の者に移行していたりする。しかも同一人物が別の名前で別々のエピソードに登場していたりさえする。これはもう作者がわざと分かり難くしているとしか思えない物語構成なのだ。だから読んでいてもこれが何の物語なのか頭の中でまるで整理がつかず、1巻目の後半までずっと頭に?マークを浮かべつつ、既に読んだページを行ったり来たりしながら読む羽目となった。

ある意味意地悪なこの小説、そこまで読み難かったにもかかわらず、本を投げ出すこともなく、面白く読み進めることが出来たのも確かだ。ページを繰るごとに現れては消えてゆくこれらのエピソードは、都市化される以前のペルーを描いたものだが、どこまでも果てしなく広がる密林、降り止まない雨、暑さ、湿気、毒虫、言葉の通じないインディオ、砂漠から吹き込む細かい砂など、これら過酷な自然の中で暮らす白人たちの暮らしと習俗、彼らラテンアメリカ人の気質などが、読んでいて実に新鮮な驚きとなって飛び込んでくるのだ。そしてようやく話の大筋が見えてくるようになった下巻中盤から、全てのエピソードが呼応し、一つの大きなうねりとなって終章へとなだれ込んでゆく様は、あたかも壮大な交響曲を聴かされているかのような感慨を読むものに与えるだろう。

それにしても、なぜこんな込み入った構成でなければならなかったのだろう?手法としてのフラッシュバックやカットバックといったものは、それが物語を効果的に盛り上げるための手法だけれども、この『緑の家』は、あえて混乱させることを目的としてこのような構成をとったとしか思えない。そしてそれは、混乱というよりも、物語の混沌を目指したものなのではないか。数十年に渡る一つの歴史が、あたかも巨大な鍋の中で煮られたスープのように、バラバラな混沌とした時間軸のまま語られる物語。混沌とした時間、それは始まりも終りも定かではない時間のことだ。いわばそれは"永遠"ということだ。では不動にして永遠のものとは、この物語のどこで物語られているのか。それはアマゾンの密林である。太古から連綿と大地を覆うジャングルである。人は生まれ、そして死んでゆく、限られた時間の存在でしかない。それらの全ての"時"を飲み込み、永遠とも静止しているともいえる時間の中にある密林。そう、『緑の家』の本当の主人公は、このアマゾンの密林だったのだ。