尻フェチ男の妄執と強迫観念の物語〜映画『尻に憑かれた男』

■尻に憑かれた男 <未> (監督:エイトール・ダリア 2007年ブラジル映画)


骨董品屋のロウレンソは酷薄なクズ野郎だった。骨董品屋での彼はまさに暴君。たいていの骨董品は二束三文で買い叩き、気に入らないものには「こんなもの何の価値も無い」「持って帰ってくれ」とけんもほろろの対応。憤然として帰る客がいても気にも留めない。だが気に入ったものには商売を度外視して札束を切る子供じみたところもあった。そして彼には"尻を愛して止まない"という尻フェチの性向があった。喫茶店に勤める女の尻に魅入られた彼は早速訳も言わずに婚約者との婚約を破棄。怒り狂い脅迫めいた行動に出る元婚約者などハエのクソ程度に扱い、またも喫茶店に通いつめては女店員の尻を嘗め回すように見つめる毎日。ケツと結婚だなんてとんでもない、ケツを買って毎日眺めていたい…。そんな彼にはたったひとつ気がかりなことがあった。事務所の下水の臭いが酷いのだ。便所が臭くて堪らないのだ。きっとこの下水溝さえ埋めてしまえばなにもかも上手く行くはずだ…。

一人の男として言うならば、オレはチチ派というよりはケツ派である。巨乳よりもどっしりした尻に憧れるほうだ。骨盤の豊かな開き具合、その上で緩やかにカーブする腰のくびれ、それらを眺めていると陶然としてしまう。ただ大きければいいというわけではないが、小さいよりは大きいほうがよく、失礼とは思うが貧相な尻を見ると相手がどんなに美人であろうと悲しい気持ちになってしまう。一方尻と比べて乳のほうはどうでもいい。大きかろうが小さかろうが気になる事は無い。まあ確かに、大きな乳はその視覚効果ゆえに「これはまた凄いですねえ」と思うこともあろうが、小さいからといって魅力が無いなどとは毛ほども思わない。あともうひとつ付け加えると、オレは背の高い女が好きで、オレ自身は身長170センチだから背丈的なコンプレックスがあるというわけではないが、なぜか高身長の女子を見ると「うほっ」と思ってしまうのだ。それとあと、ここだけの話だが、オレは女子に口汚く罵られるのが(ry

脱線したが、映画『尻に憑かれた男』はこんな尻フェチの男の物語だ。しかし日本タイトルやDVDジャケット、紹介のされ方から、単純にエロティック・コメディのような映画を想像させられるだろうが、実際の作品は、"尻"という人体の一部分でしかない"モノ"に魅せられた男の、虚無的で冷笑的な物語に仕上がっており、エロティックな要素など殆ど存在しない(まあ、「変態さんを描いた映画」であることは間違いないが)。男は、骨董品という"モノ"を取り扱い、客の人格など一切顧みず、やはり"モノ"でしかない"尻"に取り付かれ、その尻の持ち主である女たちの人格を、一切顧みようとしない。いってみれば彼にとって、客や女ですら"モノ"でしかなく、相手が血が通い感情を持った人間である、という認識を、完璧に欠落させているのだ。男の頭の中には"尻"への妄執しか存在せず、それ以外は、どうでもいい無価値な"モノ"でしかない。男のこのいびつな価値観は、滑稽であると同時に、観ていて薄ら寒いものすらあり、物語が進むにつれ、それは次第に異様な様相を呈してくるのだ。

しかし、男の歪んだ性格は、別の形をとって男に逆襲しようとする。それがこの映画のポルトガル語原題『O Cheiro do Ralo』、すなわち【下水の臭い】だ。男は映画冒頭から、「下水道が臭うだろ?」と骨董屋を訪れたどの客にもどの客にも執拗に聞く。実際、骨董屋の便所は壊れており、そして男は自分に臭いがまとわり付いて離れないと思い込み始める。この下水の臭いは言うまでもなく暗喩だ。男の人格の歪みが、下水道の臭いという形になって男を取り巻く。男の"尻"への妄執が、臭いが消えないという強迫観念なって男を苛む。即ちこの映画における下水道とは、男の抱える【虚無】そのものなのだ。そして男は、臭いの立ち上る下水溝を覗きながら、これは地獄に通じているに違いない、と呟く。それは男の無意識が、自分がこれから地獄に落ちるのだと予感させたのか。その予感は、クライマックスにおいて凄惨な事件として形を成す。映画は、"奇妙な味"ともいうべきユニークな展開を見せ、また、ブラジル製作らしい独特の美術や音楽、そして配役が目を惹く。日本タイトルはイマイチだが、一度鑑賞する価値のある映画であるのは確かだ。


尻に憑かれた男 [DVD]

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(ところで一昨日、昨日、今日の映画は全てラテンアメリカ映画で、実はプチ・ラテンアメリカ映画特集をやっていたのでした)