がんばれ負け犬SF少年!〜映画『Mr.ゴールデン・ボール/史上最低の盗作ウォーズ』

■Mr.ゴールデン・ボール/史上最低の盗作ウォーズ <未>(監督:ジャレッド・ヘス 2009年アメリカ映画)


小説といえばSF小説、映画といえばSF映画、そんな青春を送ってさらに今でもたまにポツポツとSF小説を読んでいる者としてあえて言わせてもらうと、"SF者"であることっていうのは、まあ、なんというか、ちょっぴり恥ずかしいものがある。なんかこう、(好きな言葉じゃないが)草食系というか、オタ気質というか、どっちかというと子供っぽいというか、あんまり現実得意じゃないというか、生真面目というか、青臭いというか、そういう部分がSF者にはあるような気がする。SF者が誰も彼もみんなと言うつもりは毛頭無いし、SF愛好家には知的でクールな人も沢山いるのは知ってるから、十把一絡げで決め付けるつもりは無いんだが、かつてバリバリにSF者だった自分などを鑑みるに、SF者というのは、そういった要素をどこかしら持っているような気がするのだ。

SF者といえば真っ先に思い浮かべるのは漫画家の吾妻ひでおだ。タイトルは忘れたが、吾妻の自叙伝的な作品のひとつに、現実に負け続けている自分がある日、筋金入りのSF者だと気付くシーンがある。そのシーンでは、吾妻の背中にべったりと【SF】という文字がへばりつき、あたかも寄生生物のように吾妻の体と融合しようとしており、それを見ながら吾妻は「オレ…SFだったんだ…」と絶望と諦めに満ちた表情で呟くのだ。このシーンで吾妻は、己の快楽であり心の慰めでもあるSFが、同時に宿痾の如き業病であることも悟るのである。これを読んでいたオレは、自嘲的に笑ってしまったものだ。SFには縁もゆかりも無い人には分からないかもしれないが、SF者にとって、自分がSFであるということは、どこか世を儚んだ、外れ者のような気分にさせることが無いわけではないのだ。

この映画『Mr.ゴールデン・ボール/史上最低の盗作ウォーズ』は、負け犬SF少年が主人公の物語である。タケシ軍団のつまみ枝豆を童貞臭くしたような、ダサくて不細工で貧乏臭い少年ベンジャミンは、SFが大好きで、自分もSF小説を書いていた。彼は自分のSF小説を評価してもらいたくて作家養成セミナーに出席するが、ここに講師として参加したナルシスト気味の気色の悪いSF作家に、自らの作品を盗作されてしまう。ベンジャミンはそんなことも知らず、作家養成セミナーで知り合った、ベンジャミンと五十歩百歩のダサくて不細工で貧乏臭い友人たちと、彼のSF作品を原作にSF映画を撮ることになった。しかし出来上がった映画はサイテーの出来、落胆したベンジャミンは、今度は書店で自らの作品が盗作され、書店に並んでいることに気付く…。

ダサくて不細工で貧乏臭い主人公の負け犬具合が泣かせる作品だが、主人公のみならず、主人公の親も負け犬、友達も負け犬、盗作したSF作家も負け犬、出てくるSFファンの連中も負け犬という、出てくる人間みんな負け犬、もう登場人物すべてがダサくて不細工で貧乏臭くて、映画それ自体が負け犬色に輝いているという、徹底した負け犬映画がこの『Mr.ゴールデン・ボール/史上最低の盗作ウォーズ』だ。おまけに主人公のSF作品が劇中劇として登場するが、なんというかこれがまた非常にクソ下らないカスみたいな作品で、このトホホ感をしみじみと堪能するのも映画の醍醐味となっている。ここまで筋金入りの負け犬映画を誰が撮ったかというと、負け犬少年の青春を描いた名作『バス男』のジャレッド・ヘスというからもう観ていてうなずきまくりだ。

監督ジャレッド・ヘス自身がSF者であるかどうかは知らないが、この映画には、SF者の自嘲的なネタが詰まっている。顔や仕草がキモいとか、洋服の趣味が最低とか、ロケットやエイリアンや科学兵器を見ると脊髄反射で興奮するとか、なんだか知らんがすぐコスプレしたがるとかだ。そしてこの映画で特徴的なのは、そんなSF者と対比させて"一般的な"登場人物を登場させ、主人公に引け目を感じさせたりSF者を止めさせようなどとしない部分だ。登場する人物は皆変人めいた連中であるが、それを面白おかしく描きながらも、決して悪意が無く、『バス男』と同じように、「自分らしくあれば、それでいいじゃないか、それが幸せだってことじゃないか」と愛情のある視線を向ける。アメリカン・コメディには負け犬映画が数あるが、この映画は実は、登場人物が負け犬だとは言ってないし、そんな自分から脱却しようなどと説教もぶたない。そこが心地いい。まあ、オレ自身はあんまりSF者でいたくはないんだが。