ゾンビ映画マエストロ、ジョージ・A・ロメロの新作『サバイバル・オブ・ザ・デッド』

サバイバル・オブ・ザ・デッド (監督:ジョージ・A・ロメロ 2009年アメリカ映画)

■ロメロとゾンビ映画

ロメロのゾンビ映画はいつもダウナー展開だ。他のホラー監督がゾンビ映画を圧倒的な死の軍団と人間とが対立する物語として捉え、ハイテンションなアクションを撮ろうとしているのに比べ、ロメロのゾンビ映画には常にぼんやりと暗い虚無感が付きまとっている。ロメロが走るゾンビを嫌うのは、雲霞の如く襲いかかる悪鬼のごとき怪物、絶対的な恐怖の存在としてのゾンビを描きたいのではなく、もっと別のものをゾンビという存在に託しているからなのではないか。

ロメロのゾンビ映画には社会批評が込められている、とはよく言われているが、それは完成した作品が結果的に社会批評的に読み取れるだけの話で、撮っているロメロ自身は単に「面白いゾンビ映画を撮りたい」だけなのだと思う。ただ、それが社会的なものと結びつけて語られやすいのは、それはロメロの考える"ゾンビ"が、その時代を象徴する"何か"の空気を孕んでいるからなのだろう。それは人々を飲み込もうとしているその時代の"何か"であり、決してそれに抗えないことの無力感と虚無感を描いているのだ。それが作品によってベトナム戦争であったり、大量消費社会であったり、湾岸戦争であったり、ネット社会であったりするのだろう。抗えない社会の変化と体制、それへの無力感。誰が生き残ろうと結果的には負け戦でしか無いゾンビとの戦いは、実は最初から戦いでさえ無く、ある意味翻弄されているだけともとれる。抗うことも出来ずただただ無力と虚無に飲み込まれてゆく物語、それがロメロのゾンビ映画なのだ。

サバイバル・オブ・ザ・デッド

この『サバイバル・オブ・ザ・デッド』は、前作『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』と時間軸を同じにする続編・スピンオフ作品となっている。『サバイバル〜』で主人公等から略奪行為を行った州兵たちが、今作では主人公として登場する。州兵とはいえ彼等は既にならず者の集まりでしか無い。彼等は略奪を繰り返しながら、楽園のような島があるという情報を耳にする。しかし彼等が乗り込んだその島は二つの一家がゾンビを巡り対立していた。それは、ゾンビを全滅させることを主張する一家と、ゾンビを殺さず飼育することを主張する一家の対立だった。

西部劇そのままの登場人物とシチュエーション、頑迷な地主とそれに使役されるゾンビの反乱、というストーリーからは黒人民権運動の暗喩ともとれないこともないが、それは深読みのし過ぎだろう。孤島を巡るゾンビ・ストーリーというのは実は『死霊のえじき』制作時に削られたエピソードであり、それをもう一度蘇らせ、そこで西部劇のような物語を撮ってみたい、というのが今回のロメロの目論見であったのだろう。ロメロのインタビュー記事では一家同士の対立を国家の対立になぞらえているような発言もしているが、テーマとしてはいささか漠然としすぎているように思うし、出来上がった作品も、やはり西部劇にしか見えないのだ。

■人と人との戦い

なにしろ今回は脚本が不味い。主人公の性格設定も、ならず者のように描きながら、首だけの晒し者になったゾンビの息の根を止め、情け深い部分があることを見せるというのが今ひとつ釈然としない。主人公たちが島に上陸してからの展開が特に締まりがない。ゾンビ化する仲間の描写は行き当たりばったりで必然性を感じないし、敵に拘束された後にまた武器を取り戻すシーンはお手軽すぎて説得力が無いし、ヒロインの設定とゾンビを巡るドラマは何も考えてないかのように無意味だ。そもそも、リスクを侵して「ゾンビを殺さずに飼育する」という理由が全く分からない上に、途中からは飼育を放棄して殺し始めている。これではいったい何がやりたかったのか、観ている方はきょとんとしてしまう。

しかし見所もないわけではない。今回、ゾンビの存在は殆ど恐怖の対象ではなく、たとえ襲われたとしても、不運にもトラップに掛かってしまった程度の描かれ方しかしない。取り扱いさえ間違えなければ脅威でもなんでもないものにまで後退しているのだ。そう、ゾンビはもう脅威でも恐怖でも無い。しかし、人同士の無意味な争いは続き、人は血を流し、死んでゆく。ロメロのゾンビ映画は、ゾンビと人間の戦いのみならず、最後には人間同士の戦いへと収斂してゆくが、この『サバイバル・オブ・ザ・デッド』ではそれがより顕著に描かれる。ロメロ映画において、もはや敵はゾンビではなくなってしまったのだ。即ちそれは、虚無と無力を描いたこれまでのロメロ映画から、テーマが変質してきていることを意味しないか。ロメロのゾンビ映画がこれからどこへ向かおうとしているのか、『ダイアリー〜』『サバイバル〜』と続いた新ゾンビ3部作の終章を是非見守りたいと思う。