映画『ハート・ロッカー』は爆弾処理職人の物語だった

ハート・ロッカー (監督:キャスリン・ビグロー 2008年アメリカ映画)

■行きたくない場所

2003年、アメリカ主導により「大量破壊兵器発見」を目的に勃発したイラク戦争は、フセイン拘束により収束を迎えたように見えたが、その後のイラクは政権を巡る勢力争いにより実質的な無政府状態に突入、爆弾テロによる流血が後を絶たず、現在までイラク市民だけで10万人を越える犠牲者が数えられているという。この映画は、フセイン政権終焉間もない2004年のイラクを舞台に、多国籍軍として治安維持を努める米陸軍爆発物処理班の男たちの姿を描いた物語だ。映画の原題である"HURT LOCKER"とは「行きたくない場所、転じて棺桶」を意味する兵隊たちのスラングだという。

■対爆スーツ

最初この映画のポスター写真を見たとき、男の着ている対爆スーツを見て「なんだか宇宙服を着ているみたいだな」と思った。とても異様で、いかめしく、SF映画を観ているみたいな非現実さがある。そういえばヘルメット式の潜水服も、こんな風に異様で、いかつい造りだ。宇宙服も、潜水服も、人間の生存に適さない場所に着ていく装備だけれども、この対爆スーツにしても、人が普通に呼吸できる地上にありながら、生存の適さない場所に着ていく装備だというわけだ。この対爆スーツは、一見頑丈そうなのにも関わらず、映画の冒頭で、これを来た兵士が爆発に巻き込まれ簡単に死ぬ。下手をすれば建物一つ吹き飛ばすような爆弾には、こんな装備も気休めでしかないのかもしれない。そしてこの対爆スーツは、作業効率のため、手先だけが無防備にあらわになっている。オレはこの無防備な手先がとても怖かった。もしも対爆スーツで体が守られても、手先だけは吹き飛ぶのだろうか、と思えて。

そんな対爆スーツを、物語の主人公ウィリアム(ジェレミー・レナー)は、爆弾処理中に「邪魔くせえ」とばかりに脱ぎ捨ててしまう。一見命知らずで無謀な行為のようにも見えるが、これは、爆弾処理のスペシャリストであるからこその「脱いでも問題なし」とした判断の結果なのではないだろうか。爆弾と聞いただけで怖気立つオレのような一般人は対爆スーツ着たって爆弾になんか近寄りたくもないが、爆弾と爆薬に対する高度な訓練と知識を得た専門家である彼にとって、「何が安全で何が安全でないか」「何をすべきで何をすべきでないか」は一目瞭然のものだろうと思うのだ。だから彼はとんでもない量の爆弾のすぐ傍にいたとしても臆することなく処理作業を行う。そして当然安全でないと判断したらさっさと退避する。例えとしては変だが高い建物をひょいひょい渡り歩くことの出来るとび職人みたいなものだ。とび職も一歩間違えば危険な職業だが、かといってとび職が命知らずで無謀な職業というわけではない。

■"戦争は麻薬である"

だからオレは「死と隣り合わせの作業を続けることの理不尽さ」やひいては「戦争の不条理さ」みたいなものをこの映画からはあまり感じなかったのだ。そしてこの映画の作品テーマとされている「戦場の中で死に対し鈍磨し無感覚になってゆくことの不気味さ」もあまり感じなかったのだ。いや、確かに理不尽で不条理な死は映画の中には否応なく横溢しているのだけれども、それは戦争そのものの実態であり、こと爆弾処理において爆弾と向き合う主人公の愉悦に満ちた表情を見るとき、彼はそのぎりぎりまで引き絞られた緊張感を楽しんでいるように思えたのだ。それは戦場の狂気だとばかりは言えないのではないか。映画冒頭で「戦争は麻薬である」とは言っているが、人間は、こういった極度の緊張に慣れ親しむばかりかそれを楽しむことさえできてしまう生き物なのだ。だから、テーマとして提示されたものと実際に描かれているものに、どこか齟齬が生じているように思えるのだ。

映画としてみると、爆発物処理も含めた戦場での様々なエピソードを点景のように描くが、それらのエピソードが密接に絡み合うわけでもなく、そのため物語全体のドラマ性というのがどうも希薄で、それぞれのエピソードは存分に緊張感を孕んでいるにもかかわらず、トータルで見ると食い足りないような気がしてしまうのが残念だった。むしろそういったドラマ性よりも、"戦場爆弾処理スペシャリスト"という特殊な軍務に従事する男の日常を淡々と描いた映画として観ればいいのだろう。そういった意味で、監督の掲げていたテーマが逆に邪魔なものに感じてしまった。しかしあれこれ賞を取って話題だけど、これって「戦場で頑張った兵士の皆さん」への功労賞ってことなんじゃないのかなあ。

ハート・ロッカー 予告編