イスラエルの存在しなかったもう一つの世界〜小説『ユダヤ警察同盟』

ユダヤ警察同盟(上)(下) / マイケル・シェイボン

ユダヤ警官同盟〈上〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈上〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈下〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈下〉 (新潮文庫)

ヒューゴー賞ネビュラ賞ローカス賞というアメリカSF大賞三冠に輝き、さらにMWA賞、ハメット賞の最終候補にまで挙がったハードボイルド・SF・ミステリ作品。いわゆるクロスオーバー・ジャンルの作品であるが、SF色はそれほど濃くなく、むしろ非常に秀逸な比喩を駆使したハードボイルド文学であり、そしてある種の幻想小説であるという事が出来るのではないかと思う。

2007年。第2次世界大戦後ユダヤ民族がイスラエル建国に失敗したもう一つの未来。数百万人のユダヤ人達はアメリカ・アラスカ州に設けられた暫定特別区"シトカ"に住まわされ、そしてその居留区の貸与期限ももうまもなく切れようとしていた。この再び"ディアスポラ"を強いられることになるユダヤ人達の街で、一つの殺人事件が起こる。ホテルの一室で頭を撃ち抜かれていたその若者は、ヘロイン中毒であり、そして天才的なチェス・プレイヤーとして仲間内で知られていた。主人公である刑事ランツマンは事件を追ううち、アラスカ・ユダヤ人社会に巣食う闇と陰謀に気付き始める。

陰鬱である。どこまでも陰鬱である。降り積もる雪と染み入る寒さ、そしてどんよりとした灰色の空に閉じ込められたユダヤの人々。暫定居留区という失敗した楽園の囚われ人となった彼らは、皆一様に貧しく悲観的で、目を逸らしながら話し、項垂れながら雪道を歩く。主人公ランツマンもそんな一人だ。失敗した結婚、孤独、飲酒癖、ゆっくりと身を苛む絶望とあまりにもあからさまな失意。物語はこれらどこまでも陰鬱な情景と陰鬱な人々を描写しながら進んでゆく。なにしろ最初はあまりにもあまりな暗さに、読んでいるこちらまでどんよりしてきたぐらいだ。

そしてこれらを描写する一行一行に、これでもかと塗り込められた皮肉で虚無的な直喩、隠喩、換喩、提喩。この絶妙な比喩の冴えにまず唸らされる。この文章は真性のハードボイルドだ。それも感傷無しのどこまでも湿度の低いフリーズドライなハードボイルドだ。小説『ユダヤ警察同盟』を読む醍醐味はまさにこの文章を味わいつくすことにあると言える。その為それらの書き込みのせいで前半は殆ど物語が展開しない。むしろこの前半は失意の中で感情のミイラと化してゆく主人公らユダヤ人居留区の中の人々を活写してゆくことに主眼があったのだろう。まあしかしちょっとタルいっちゃあタルい。

しかし殺された青年の正体が判明する中盤から物語は俄然加速し始める。なんとこの青年は、ユダヤ社会において絶大な権力を誇る宗教的有力者の息子であると同時に、あちこちで神の如き奇跡をもたらしていたという噂のある青年だったのだ。そんな彼が何故ホテルに身を隠しヘロイン中毒になり最後に殺されねばならなかったのか?捜査するランツマンの前には闇社会まで司るとある強力なユダヤ宗派が立ちはだかる。その背後には旧約聖書の時代より連綿と続くユダヤ人の流浪と迫害、呪詛と怨嗟、そして建国への希求の歴史が地層のように折り重なり海溝のように暗く深い口を開けていたのだ。

例えばユダヤ人社会を巡る歴史的暗部を描こうとするだけなら、この小説のようなパラレルワールドを持ち出さなくてもよかったはずなのだ。しかしいわゆる歴史改変SFと呼ばれる手法を使ったこの物語は、終盤に近づくにつれ何故このようなテーマを選んだのかが次第に明らかになってくる。歴史改変SFの名作といわれるP・K・ディックの『高い城の男』は、第2次世界大戦でナチス・ドイツ勝利を収めた世界で、そうではなかった世界を夢想する人々の物語だったが、この『ユダヤ警察同盟』では、イスラエル建国に失敗した人々が、ユダヤ王国を夢想する物語として完成しているのだ。

フィクションである『ユダヤ警察同盟』の世界ではありえなかった、この現実世界でのイスラエルが、今中東で、パレスチナ"暫定自治区"で、どのような行いをしているかはここで説明するまでもないだろう。シオニズム運動についての問題は、このオレが意見や感想を言える様な代物ではないが、それにより多くの血が流され、現在も流され続けていることだけは確かだ。この『ユダヤ警察同盟』は、イスラエルが存在しなかったもう一つの世界を描くことにより、ユダヤ人にとって、イスラエル建国とはなんだったか、それが今、どのようなことになっているのかを、裏返しの視点から描こうとした物語だったのではないだろうか。

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)