WALL・E/ウォーリー (監督アンドリュー・スタントン 2008年アメリカ映画)

■ゴミの惑星

29世紀の未来。人類がゴミの山と化した地球を捨て、宇宙の何処かへと旅立ってしまってから700年の時が過ぎた。しかしこの静寂だけが支配する惑星で、唯一つ律儀に動き回るロボットの姿があった。彼の名はウォーリー。彼は人類が姿を消した後も700年間黙々とゴミの山を圧縮し積み上げ続けていたのだ。しかしそんな永劫に続くかと思われた日々が、一隻の宇宙船の出現によって終止符を打たれることになる。宇宙船から現れたのはある任務を帯びてこの星に派遣されたロボット、イヴ。ウォーリーの運命はイヴと出会うことで大きく変わろうとしていた…。

次々と斬新で親しみやすく感動に満ちたフルCGアニメーションを製作し続けるピクサーの新作アニメーション映画『WALL・E/ウォーリー』である。今作では死に絶えた未来の地球、意思を持つロボット、宇宙への旅、退化した人類、AIの反乱、そして新たな未来への希望、といったベタ過ぎるぐらいベタな王道SFのモチーフが連発され、ピクサーアニメファンのみならずひとかどのSF者であるならば這いずってでも観に行かなければならない作品として仕上がっている。この『WALL・E/ウォーリー』は新作を送り出すごとにそれが傑作であることが運命付けられているピクサーの、現時点での最高傑作であることに疑いは無い。

■SFとしての『WALL・E/ウォーリー

しかしこの『WALL・E/ウォーリー』、細かいことを言うならばSF設定としても物語としても結構穴が多い。まあ、"ロボットが主人公のファンタジー"として観るのがこの映画の正しい観方なのだけれども、ここは疑問点とそこから導き出される「語られていない裏設定」を妄想してお茶を濁してみようかと思う。なおかなりネタバレしているのでこれから観る人は読まないほうがいいかも知れない。

・感情のあるロボット、というのはいろいろ難しい。最新型であるイヴならば考えられるけれども、ウォーリー程度の単純作業ロボットに搭載されたAIがここまで「感情を持っているかのように振舞う」ことをどう捉えればいいのか。ここで推論してみるならば、ウォーリーが製作された時代でも自己学習型のAIは既に一般的であったとするのが順当なのだろう。
・そしてロボットがロボットを愛するか?という問題だけれども、例えばウォーリーがイヴの手を握りたい、と思った(動作の判断を下した)のは散々観た映画VTRがAI刷り込みされ(学習され)、それを演繹しようとした結果なのだろう。
・では何故ウォーリーは手を握ること以上に、あたかも人間の恋愛感情の如くイヴに執着したのか?ロボットの恋愛、という題材の手塚治虫のある短篇漫画では、同一年月日に製造された2体のロボットがそのデリケートなAIの構造ゆえに過度にシンクロしてしまい、それがあたかも恋愛の如くお互いを惹きつけ合った、という設定のものがあった。ウォーリーとイヴでは製造年も形式も大きく違うであろうが、実はウォーリーのAIのアーキテクチャがイヴのそれの先祖であった、なんて解釈が出来るかもしれない。
・人類はノアの箱舟のような巨大宇宙船で安穏とした日々を過ごしていたが、結局生き残ってたのはあいつらだけだったのか?だとすると、地球を脱出できたのは一握りの支配層だけだったということも考えられるわけで、そんな地球をゴミの山にした張本人たちがお気楽に過ごしているばかりか、最後に地球にまた悠々と戻ってきて支配する物語というのもなんだか虫唾が走る。
・イヴは地球に植物の発生を確認する目的で訪れたようだが、これが必要だということは、22,3世紀の地球というのはゴミ問題のみならず植物が死に絶えた惑星だったということも考えられる。それは異常気象や大気汚染、核放射能の蔓延なんてことがあったとも想像できるわけで、そんな状態が700年で浄化されるのか?という疑問がある。
・さらに言ってしまえば、植物が無いのなら酸素が生み出されることは無い訳だし、単純に考えて大気の組成も変わってしまうわけだから、人間の住めるような気象の惑星では無くなっている筈である。これがただ単に700年放置しただけで改善されるとは考え難い。
・しかし深宇宙まで旅し700年も自給自足できるようなテクノロジーを持っているのなら、バイオテクノロジーによる植物の育成、気象の科学的制御も可能な筈なのではないか?なんでそれをしないで地球を放って置いたのか?実は、物語では描かれていないだけで、そういった惑星規模の大掛りな自然操作が既に成されていて、それが成果として実を結ぶのに700年掛かったのだということも考えられる。
・そうだとしても、人類を地球に戻させなくしようとするAIの反乱の理由がよく判らない。『2001年宇宙の旅』のHALは二律背反の命令を出されたが故に発狂したが、「人類が再び地球に戻ること」それ自体がAIにプログラムされているのは当然なことではないのか。
・最後は人類は地球に戻って目出度し目出度しである。しかしこのような地球の窮状を生み出した理由を果たして連中は判っているのか?また同じことを繰り返して惑星を汚し、そして同じようにまた宇宙に逃げ去るような気がしてならない。
・てか、実は700年の間にどこかの惑星のテラフォーミングが完成していて、案外そこに移り住んじゃうのかも。で、地球は地球で一応また住んでおくのね。だとすると、結構エコロジカルなテーマのこの物語も、「人類は実は全然学習していない」という結論になってしまわないか?

…意地悪なことを言うならば以上のようなことが考え付くのである。…あ、ぶたないでぶたないで!

■アニメーション『WALL・E/ウォーリー

ごちゃごちゃと書いて顰蹙を買っていそうだが、それでも尚、映画『WALL・E/ウォーリー』は素晴らしい作品だった。冒頭の寂寥感溢れる地球の大地もウォーリーの寂しげな様子も、イヴとの出会いの高揚感もドタバタも、そして宇宙に旅立ってからの息をつかせぬアクションも、そしてラストの心温まる結末も、なにもかも完璧に計算された動きに満ちていた。今更知ったように当たり前のことを言うのも恥ずかしいが、ええと、アニメーションってのはさあ、"動き"っすよねえ!?そうでしょそこのお兄さんお姉さん良い子のみんな!?ウォーリーもイヴも、他の様々なメカたちも、決して人間の言葉を語らない。だから全ての感情表現と状況説明は"動き"のみで語られ、説明される。言葉で説明の入る人間たちの現状とか状況とかいうのは、実は物語を成り立たせるための方便でしかなくて、この物語の本質は、"動き"だけで語られるロボットたちの豊かな感情の様なのだ。

ピクサーはこれまで、様々な人間ではない生き物、物体を、人間のように、生き物のように描いてきた。『トイ・ストーリー』のオモチャ然り、『バグズ・ライフ』『ファインディング・ニモ』『レミーのおいしいレストラン』の生物たち然り、そして『カーズ』の車然りだ。物言わぬものたちを人間のように振舞わせ語らせる、そういったアプローチこそが本来アニメ−ションが持つ楽しさであり、ピクサーが描いてきたものだった。そして今作『WALL・E/ウォーリー』では、登場するものたちに言葉による説明をさせることなく、その"動き"のみで語らせることに挑戦しているのだ。勿論"動き"のみで楽しませるアニメーションはこれまで幾多も存在しただろう。ただ、『WALL・E/ウォーリー』では更に突っ込んで、"動き"のみで"愛情"という最も繊細な感情表現を成功させているのだ。

■手を繋いで帰ろう

お互いの名前を呼ぶ以上の言葉を発しないウォーリーとイヴ。この2体が、惹かれあい、見つめあい、そして手を繋ごうとする、そのいじましいやり取りが、そこに確かに"愛情"が存在しているかのように、微細で繊細な動きで、全て表現され、説明される。それをCGIというコンピュータ制御のグラフィックで完璧なまでに演出する。この技術と力量と説得力こそが今回ピクサーが『WALL・E/ウォーリー』で成しえたことであり、だからこそ、映画『WALL・E/ウォーリー』は万人を感動させえるアニメーション映画として完成したのだ。そう、映画『WALL・E/ウォーリー』は、ラブ・ストーリーだったのである。

そして、この映画を観た人たちは、映画館の帰り、きっと誰かと手を繋ぎたくなるだろう。少なくともオレは、オレの大事な人と、手を繋いで帰ったよ。ウォーリーとイヴのように。

■【公式】WALL・E/ウォーリー 予告編 予告