アジアの岸辺 / トマス・M・ディッシュ

アジアの岸辺 (未来の文学)

アジアの岸辺 (未来の文学)

アメリカのニュー・ウェーブSF作家トーマス・M・ディッシュの日本独自編集による短編集。トマス・M・ディッシュについは処女長編『人類皆殺し』を読んでいるだけだが、あの長編は相当イヤッたらしい展開を迎える作品だった。世界中に突然未知の大木が生い茂り全ての文明が崩壊、生き残った人類は大木の中空になった幹や根に入り込み樹液を吸って何とか生き延びるが、次第にモラルを失っていき…という話なんだが、要するに人類を植物に寄生する虫程度のものとして描いているのだ。当時、熱心なSFファンとしても知られていた作家の三島由紀夫をして「よくなりたがらない病人のような小説」とまで言わしめた作品だったのである。

この短編集でもそのイヤッたらしい作風は満遍なく受け継がれている。程度の差こそあれ、基本的にエグくイヤッたらしく不安で不快な読後感を残す作品が多い。「降りる」はマーク・Z・ダニエレブスキーのメタフィクション「紙葉の家」や諸星大二郎「地下鉄を降りて」を思わせる悪夢的な物語。「争いのホネ」はチェーンソーとレザーフェイス抜きの「悪魔のはらわた」といったところか。各所で傑作と評判の高い「リスの檻」はサディスティックに描かれる視点が最後の最後でマゾヒスティックに裏返るのがポイントか。「リンダとダニエルとスパイク」は電波女の話だと読んですぐに気付くが、最後までこの女を情け容赦なくいたぶる筆致がやはりSMじみている。最後までこれでもかとばかりにサディスティックなのが「カサブランカ」。作者に「お前なんかあったのか?」と小一時間ぐらい問い詰めたくなるいやーな話。

出色なのが風の香りから街角の腐臭まで、全てが濃厚で鮮やかな異国のエキゾチズムで溢れかえる「アジアの岸辺」だろう。丹念に練り上げられた筆致とイスタンブールでの放浪体験から得られたリアリズム、そして目の前に迫ってきそうなほどに精緻に描かれた情景の描写力など、ディッシュが満を持して書き上げた作品であることに間違いない。この作品は知的な西洋人が第三世界に足を踏み入れることで白人としてのアイデンティティを剥ぎ取られる、といった物語だ。映画作品で言うとベルナルド・ベルトルッチの『シェルタリング・スカイ』が同工の作品だし、またコッポラの『地獄の黙示録』もジャングルの中で西洋人が自我喪失しベトナムの闇の中に飲み込まれてしまうといった部分で共通点を見出すことが出来るだろう。西洋人の持つ構築的な知性は第三世界の混沌とし雑多である諸相の中では容易く瓦解してしまう。逆に言えば西洋文明とはこれらを駆逐することで成り立っている文明であるという見方さえ出来る。あくまで個人的な視点で書かれた本作ではあるが、西洋と第三世界の衝突といった観点で読むと面白い作品だ。

続く「国旗掲揚」「黒猫」「犯ルの惑星」「第一回パフォーマンス芸術祭、於スローターロック戦場」は作者の変態性が遺憾なく発揮された作品だ。ディッシュは知的な作家だといわれるらしいが、むしろ知的であるがばかりにその変態性も見事にねじくれ一筋縄ではいかない迷宮のような狂気に彩られるのだ。言ってみればIQの高いシリアル・キラーみたいなものだろう。論理が強固である分一見まともに見えてしまうが、ディッシュ全ての作品に共通する、対象を1000万光年の彼方まで突き放したような視点というのは、万全に隠匿された精神疾患の一つの表出のようにさえ思えてしまう。まあそれは言い過ぎだとはしても、極めてタチの悪いインテリの変態、と思ったほうがディッシュの正しい評価になるのではないだろうか。

そんな中で「死神と独身女」は変態なりに優れたストーリーテリングを見せる傑作で、変態要素さえなければ小粋でスノッブな雑誌に載ってもおかしくはない軽妙洒脱なセンスの作品として読むことが出来る。まあ言ってしまえばスノッブというのも一つの変態であり嫌らしい連中であることを考えるならば、これはこれで確かにニーズに応えている作品である、などと嫌味の一つも言ってあげよう。個人的に最も好きな作品は「話にならない男」だ。これはタイトルがイマイチなんだが、原題の「The Man Who Had No Idea」と内容から考えると、「ウケる話の出来ない男」といったことになるだろうか。社交的で誰からも親しまれる会話が出来ることが世間並みの印、といった脅迫観念を逆手に取った、変態のディッシュでなければ考え付かなかったような実に"奇妙な味"の作品だ。

しかしこの本を読んで作者履歴をなんとなく調べたら今年の7月に作者は拳銃自殺を遂げていたらしい。返す返す残念なことである。