死よりも悪い運命 / カート・ヴォネガット

死よりも悪い運命 (ハヤカワ文庫SF)

死よりも悪い運命 (ハヤカワ文庫SF)

1991年に発表されたカート・ヴォネガットの第3エッセイ集。ヴォネガットはこれまで1974年に『ヴォネガット、大いに語る』、1981年に『パームサンデー』、さらに2005年には第4エッセイ集の『国のない男』を出版しており、ほぼ10年を節目としてエッセイを書いていたことが分かる。それらはヴォネガットが見つめた世界の10年の流れであり、また、10年歳を取ったヴォネガットの心境的変遷であり、そして10年の歳月を経ることで対象化されたヴォネガットの過去の追憶を綴ったものである。

いつものようにヴォネガットの筆致は皮肉と静かな怒りに満ちている。このエッセイ集がハヤカワ・ノヴェルズとしてハードカヴァー本で出版されたのは1993年だが、発刊当時の時代、いい具合にやさぐれていたオレはヴォネガットの現実に対する真摯さや真っ当さが疎ましくてこの本を手に取ることはなかった。コンスタントに発表されていた長編にも初期作品ほどの感銘を受けることがなく、ヴォネガット的なスタンスにちょっと飽きてきていたこともあるのではないかと思う。

そして氏の死後再刊された本書をようやく手に取り、相変わらずの口煩さを感じつつも、ヴォネガットにとって戦争体験というのはそれこそ生涯を通じて訴え続けるべき最重要のものであったのだなと今更のように感じてしまう。この戦争体験こそが作家カート・ヴォネガットの原体験であり原風景であり、終生を通じて書き続けなければならないと思わせたものだったのだろう。そして戦争の胎芽となり、また戦争と同等に悲惨さを生み出す数多の紛争や社会問題や政治問題を文学者の目を通して憂い続けていたのだろう。

それら全てのものを背負って生き、粘り強く否を唱え続けることは強靭な知力と体力を備えていなければ成し得ないものだと思う。ましてそれを作家としての鋭敏さと繊細さ、卓越した表現力で世に問い続けていくという行為は。そんなヴォネガットでさえ、自らの背負ったものの重さに耐えかね、かつては自殺未遂さえ起こしているのだ。表現者というのは坑道のカナリアである、という説があるけれども、ヴォネガットの、時に読んでいて辛くなってしまいそうな真摯さというのは、そんな突き詰めた思いによって成り立っていたような気がする。

ただ、忘れてはいけないのは、ヴォネガットは、そういったヒューマニストであったと同時に、ユーモリストでもあったということだ。ヴォネガットのそのユーモアは、皮肉であったり虚無的であったりはするけれども、自らを苛む重圧を、とりあえず笑って撥ね退けてしまえ、笑わなきゃやってられないだろ、といった気概があったのではないかと思うのだ。それはきっと、ヴォネガットのギリギリの反骨だったのだろう。だから、生真面目にヴォネガットを論ずるよりも、おどけてみせるヴォネガットに茶々を入れるのも、またヴォネガットの読み方の一つではないかと思うのだ。例:*←ケツの穴とはこんなものだ!

そんなこととは別に、読んでいて思ったのは、本編の中には沢山の人の死が語られていることだ。それは戦争や事故といった悲劇的なものではなく、高齢に近づけばどのような人間にも訪れるような、ある意味天命に近い類の死だ。『死よりも悪い運命』を発表した年にはヴォネガットは70歳近い高齢であった。この年齢であれだけ新鮮でエネルギッシュな文章を書いていたことにも驚かされるが、やはり順当に考えれば、老人と考えておかしくない歳だろう。

その年齢で、同年代の、または多少上の世代の、知人や友人や同業者達の死に直面するのは、ある種止む終えないことではあるのだろう。それが生きることの宿命であり、自らもまた死に臨むのだと悟ることでもあるのだろう。そしてオレは、このエッセイを読んでいて、ふと、自らがこれから迎える老齢と、いつか訪れるであろう死に、思いを馳せてしまったのだ。オレにとってヴォネガットの『死よりも悪い運命』は、そんなエッセイ集であった。