氷 / アンナ・カヴァン

氷

世界はゆっくりと死の氷に覆われつつあった。人々の不安は全体主義国家を生み戦争をもたらした。主人公はヨーロッパのとある国の諜報員。彼は国々を巡りながら一人の少女を追い求めていた…。

奇妙な小説である。死に瀕した世界、不穏な政情や泥沼の戦争、スパイ・スリラーのような諜報員の姿を描いてはいるが、この物語は世界の危機を正面からとりあげたパニックSFといったものでは全く無い。むしろニューウェーブSF作家、J・G・バラードが描いたような、不安や孤独といった人間の内面を世界に投影した、非現実的で幻想的な作品なのである。つまりこの小説『氷』で描かれる世界の破滅は、作者アンナ・カヴァンの一つの心象風景だということができるだろう。ではこの作品で描かれたアンナ・カヴァンの心象風景とはいったいどんなものだったのか。

この『氷』の物語では、一方に「迫り来る氷」という《絶望》があり、もう一方に「少女」という《渇望》がある。主人公の男は《絶望》をやり過ごしながら《渇望》を追い求めるが、ここで重要なのは、《渇望》=《希望》では決して無いということである。つまり《渇望》される少女は、《絶望》の対語である、《希望》される存在ではない、ということなのである。《希望》であればそれは時として《絶望》を凌駕することもあるだろう。だが、この物語ははなから《希望》を相手にはしていない。

それでは《渇望》される少女とはなんなのか。それは《妄執》である。《絶望》は最期に自らに追いつき、全ての息の根を止めるだろう。その運命には決して抗えはしない。即ち《希望》は無いのだ。しかし、《絶望》が全てを覆い尽くす前に、消えかけた生命が最期にすがるもの、奈落へと堕ちてく魂をつかぬまに掬い上げるもの、それは、刹那を永遠へと引き伸ばしてくれる甘美なるものへの《渇望》であり《妄執》であるのだ。

さらに全体主義の台頭と世界で行われているらしい戦争や”長官”と呼ばれる強力な権力志向の男はなんなのだろう。それは猥雑で野蛮で卑俗なこの世界の有り様を揶揄したものなのではないか。そのような世界への作者の嫌悪や忌避が、紛争と権力闘争にまみれた混沌とした世界として描かれたのではないか。だがしかしこの物語背景となる世界は、主人公の《妄執》に相対すると書割のように影が薄い。それは作者アンナ・カヴァンがはなから現実世界を拒否していたからなのではないか。

作者アンナ・カヴァンはその生前精神を病み、自殺未遂、精神病院への入院を経験しながら、晩年は強い抑鬱状態から逃避する為にヘロインを常用していたという。厭世的な生涯、その中での孤独、そして死への願望。その《絶望》に満ちた生が小説『氷』の中で描かれた終りを迎えつつある世界であり、そしてその人生に於いてつかぬまの甘美と陶酔を与えてくれるヘロインへの《妄執》が、この物語で登場する少女だったのではないか。作者アンナ・カヴァンは、冷たい氷の中に閉ざされるかのような陰鬱と死の予感の中で、ただ一つ自らを生かしてくれる薬物を《渇望》した。それがこの『氷』の物語だったのではないだろうか。

1967年に刊行されたこの作品は、ニュー・ウェーブSF運動が盛んだった時期と同時期のものであったが、アンナ・カヴァン自身はSFを書いたつもりではなかったのだという。しかしこの作品はブライアン・オールディスに大きく取り上げられ、オールディスはこの『氷』をその年最高のSF作品として挙げたということだ。しかしアンナ・カヴァンは翌年1968年に心臓発作により死去。死の床にはヘロインの注射器が置かれていたという。氷がアンナ・カヴァンの全てを覆い尽くす時に、渇望の少女は彼女の魂を救えたのだろうか。