ハンコック (監督:ピーター・バーグ 2008年アメリカ映画)

■ヒンシュクヒーローハンコック登場!

お酒と女が大好きなクズ・ヒーロー、ハンコックの登場だ!なにしろガサツで粗暴だから、悪者やっつける時も人助けする時も、やりすぎちゃって周りのものをみんなぶち壊しちゃうという、近所迷惑ヒーローなんだ!おかげで街中から大ブーイング、下手な悪者よりも嫌われちゃっていると言う難儀な人なんだ!スーパーマンスパイダーマンバットマンやX-メンなど、今までいろんなヒーローが登場したけれど、こんなダメなヤツ見たことない!?

というわけで映画『ハンコック』である。あんまり関係ないがオレの地元北海道ではドン臭いヤツのことを「はんかくさい」と言うんだが、このハンコック、文字通りはんかくさいヒーローなんである。つまりドン臭いヒーローのことをこれから「ハンコックさい」と言えばいいのである。ただ問題ははんかくさいヒーローというのがあまり存在しないので応用が難しいという部分があったりするので、この言葉はあまり役に立たない、という哀しい宿命もあるのである。強いて言えば…パーマンぐらいか?

■パロディとしてのハンコック

さてこの映画、所謂ヒーローもののパロディと言うことが出来るだろう。ヒーローが誰しも清廉潔白というお約束や、活躍の際に壊した建造物は正義のための必要経費という暗黙の了解を覆したわけだ。しかし建造物破壊の責任を追及されて汲々とするヒーロー、というのはピクサーアニメの『Mr.インクレディブル』で既に描かれているし、性格に難があるばかりに余計な破壊までも行ってしまうヒーローというのはユマ・サーマンが主演した『Gガール 破壊的な彼女』で登場済みだ。ではこの『ハンコック』、それら2作と違うところはというと、自分が何故こんな能力を持っていて、何故こんなことをしなけりゃいけないのか、記憶喪失のためによく判っておらず、それをイヤイヤこなしている内に周りから疎まれて、なんだかヤサグレてしまうという、実は見た目や行いとかけ離れている消極的なヒーローだったりする部分なのだ。

現代的に描こうとすればするほど、ヒーローの物語というのはややこしくなる。それは一点の曇りもない正義だの善だのといった大義名分が、そもそもがややこしくなっているこの現代には通用し難くなっているからだ。最近公開されて話題になったヒーロー映画『ダークナイト』が、非常に優れた表現を持つ映画だったのにも拘らず、やっぱな〜んだかスキッとしないウジャウジャした映画だったのは、正義とはなにか?なぜ正義を行わなければならないのか?大きな正義を行使する為には小さな悪は許されるのか?などと主人公がウジャウジャ苦悩することが原因だったのではないかと思う。

■『ダークナイト』を超えて

しかしこの『ハンコック』の物語は、『ダークナイト』が抱えていた命題をいとも簡単にクリアしてしまう。なぜハンコックは正義を行うのか?それはハンコックにできることは、それしかないからである。正義とは何か?それは自分が行うことになっていることである。じゃあモノ壊したりとか小さな悪はしょうがないの?やっちゃうもんはしゃーねーじゃん!ハンコックは大義名分のために正義を行わない。やれることだからやっている、正義というお仕事に過ぎない。実際面倒くさいし、周りの評判は悪いけれど、ハンコックには正義以外に自己実現するすべがないのだ。

はからずもコミック雑誌のヒーローの表紙を見せられたハンコックは、これをどう思う、と問いかけられて「ホモ」と答える。それは性的嗜好というよりは、ナルシスティックな自意識を指した言葉なのではないかと思う。『ダークナイト』のバットマンジョーカーも、所詮自らの強烈な自意識に踊らされた見栄っ張り野郎でしかなかった。なにしろやることなすこと芝居がかったウザってえ連中だったもんな!しかしハンコックはその自意識やナルシシズムとは無縁だ。彼にとって、正義とはこなすべき日常に他ならず、能書きでは無く行動そのものだからだ。映画としての『ハンコック』はオチャラケた軽いノリで観られる所詮B級作品だが、この一点に於いて『ダークナイト』を凌駕したという部分で、注目してもいい作品かな、と思う。

■ハンコック 予告編