881 歌え!パパイヤ (監督:ロイストン・タン 2007年シンガポール映画)

シンガポール映画!

ゲータイ(歌台)、それはシンガポールで旧暦7月に開催される歌謡イベント。いわゆるシンガポールのお盆の時期に、先祖の霊を楽しませる為国内500ヶ所で繰り広げられるスペシャル・トロピカル・エンターティメント・ショウ、それがゲータイなのだ!
この映画『881 歌え!パパイヤ』は、シンガポール国民10人に1人が観たという、ゲータイに憧れスターの道を歩んでゆくリトル・パパイヤとビッグ・パパイヤの二人の少女ユニット、その名も《パパイヤ・シスターズ》の、笑いと涙のウルトラ・歌謡ムービーだッ!!

『ド派手な衣装に見たこともない歌と踊り。笑って泣いておなかいっぱい。シンガポール映画もやるわネ!!――美川憲一(歌手)』

■ゲータイの世界!

というわけで歌手の美川憲一さんもお薦めするシンガポール映画、『881 歌え!パパイヤ』である。東南アジアの歌謡ショウ、という怪しさと胡散臭さとチープな南国パワー満載の大衆演劇ドラマなんである。両親を亡くし自らも病魔に犯されているリトル・パパイヤ、なんてぇ設定から既にあざとさ全開であり、ここにゲータイ・スタアになったばっかりに親から勘当されてしまうビッグ・パパイヤが絡むわけだが、そもそもなんで勘当されるのかはよく分からない。

分からないといえば二人に素晴らしい歌声を授ける”ゲータイの女神”なる人も、実際は人間のくせになんで魔法を使えるのか、そして神殿の奥に鎮座しているのかよく分からない。しかしこんなもん、理由や訳を考えなければならないのがそもそも野暮なんだッ!この物語は歌と踊りのファンタジーなんだッ!と割り切るとあら不思議。満艦飾の衣装を纏った人たちが、中華音階のポップスを口ずさみながら、夢の国の妖精のように踊っている、そんな映画だと分かるんだッ!

■そこはもうお祭り!

東南アジアあたりだと、映画を観るという行為それ自体が祝祭空間に入ることなんだろうなあ、というのがこの映画を観るとよく伝わってくる。結局綺麗に組み立てられ破綻無く語られる起承転結の物語など二の次なのだ。いかに観る者の心を扇情するか、日常からかけ離れた空間に放り込めるのか、そして入場料きっちりお腹一杯にして観客を帰すことが出来るか、そういうアトラクションのような映画がかの地では求められているのだろう。

その為にはややこしいドラマツルギーだの心理描写など必要無く、老若男女誰にでも理解でき、国民全ての共通の理解項を持った映画こそが喜ばれるのだろう。これは一歩間違うと「これとこれとこれさえ並べておけば大概の客は喜んで帰るでしょ?」といった、イマジネーションの欠片も無い典型的な日本映画に似てしまうけれど、決定的に違う部分があるとすれば、それは描く、ということに対する圧倒的なパワーだ。紋切り型の映画文法を持ち込みながらも、そのパワフルさによって物語が破綻することすら厭わない、描写することへのたゆまない歓喜が、この映画には存在する。

■なんでもありだった!

映画はショウビズ・ストーリーから始まって、ファンタジーへ、ミュージカルへ、ラブストーリーへ、ファミリードラマへと絶え間なく変化してゆき、クライマックスのドリアン・シスターズとの歌対決では、ゲータイたちは歌い舞うだけではなく、衣装は次々と変化を重ね、宙を飛び、光線を放ち、肉弾戦まで繰り広げ、しまいには血反吐を吐いて地にくず折れる。
コメディだと思って観ていると、難病もの展開が観客の心を鷲掴みにし、なんとまるで怪談のようなお話さえ飛び出してくる。胸弾ませる歌物語であると同時に、祖霊を敬う土俗的な宗教観がかくとして存在し、国民的な心情にすら訴えかけようとする。
もはやなんでもあり、あって当たり前、そんな南国の花の色のような、鳥たちの羽の色のような、極彩色の物語、それがこの映画だ!もっと分かりやすく言おう!小林幸子ピンクレディーが100人集まって歌い踊る映画、それがこの、『881 歌え!パパイヤ 』なのだ!

■「881 歌え!パパイヤ」トレイラー


■歌うパパイヤ・シスターズ!


■これがドリアン・シスターズだ!