エア / ジェフ・ライマン (後篇)

エア (プラチナ・ファンタジイ)

エア (プラチナ・ファンタジイ)

前回の続きです。

■夢の終りに

ジェフ・ライマンとはどのような作風を持つ作家なのか?ということを説明するため、ここで簡単に『エア』以前に発表された長編『夢の終りに…』のあらすじを紹介してみよう。

『夢の終りに…』は『オズの魔法使い』のドロシーに現実にモデルがいた、とするフィクションであるが、このモデルとなったとされる主人公の少女は、アメリカの貧しい農村で、継子として虐待され暴行を繰り返された挙句、精神を病んでしまうこととなるのだ。そして、残酷で無慈悲な現実の中で、たった一つ彼女がすがろうとしたのが、『オズの魔法使い』を思わせる妄想の世界だった、という物語なのだ。さらにそのルポルタージュを書く為に事実を追っていた男でさえ、HIVで余命幾ばくも無い、という設定であった。この物語で描かれるのは、一片の救いも無い現実に生きながら、それでも輝ける救いの世界を夢想する人々の、悲しく遣る瀬無い性であった。

一方、この『エア』における主人公メイも、世界の誰も知らず誰も顧みない小さな国の、家電製品さえまともに無い貧しい村の女として登場する。同じ村に住む人々は、誰もが頑迷であり無知であり、そして貧困であることに慣れ切ってしまったが故に、その貧困から抜け出す術さえまともに考えることができない。その中で《エア》の持つ力をただ一人悟ったメイは、自分を、村を、社会を、即ち世界を変えるために孤軍奮闘するのだ。だがその主人公メイは、文字すらも読めぬ無学文盲の女であり、性格は激烈で、容易く間違いを起こし、容易く敵を作ってしまうという、決して完璧な人間ではないのだ。にもかかわらず、彼女は自らの戦いを続けてしまう。世界とは、変わるものであり、また、変えなければならないものである、という狂信にも似た想いによって。

■世界を変える力

このように、ジェフ・ライマンという作家は、社会的弱者や惨めな現実に打ちひしがれた人々に目を向け、その中で彼らがどのように現実と対峙して行くのか、を描くことを自らのテーマとしている作家ように思う。そして、『夢の終り…』から『エア』へと至る作者の内面的変遷の中で、作中人物とそれをとりまく現実の描かれ方が、作品内でどのように変化しているのか比べてみよう。

『夢の終りに…』において、徹底的に世界から疎外され虐げられた人々は、何の力も無い幻想にすがるしか救いを見出せなかった。それは個人の力の現実に対する非情なまでの無効性だった。『夢の終りに…』とは、この、《無効である》という事実への深い悲しみに満ちた物語だったのだと思う。だがしかし、この『エア』では、同じように世界から疎外された者が、その世界を変える為に、遮二無二現実と戦おうとする。ここで、ジェフ・ライマンは、我々は、現実に対して決して無力なのではない、と、前作から一歩踏み出して主張をする。そして、その戦いの為のツールとして、作中の主人公が選んだのが《エア》と名づけられたインターネット環境だった。

勿論、インターネットが人間の暮らしを幸福にするなどというのは安易な幻想でしかないが、それでも、インターネットによって変わりつつある世界の構造を肌で感じている人は多いだろう。ネットによって世界が変わる、のではなく、世界とは変化しうるものであるという、希望のきざはしを見出すこと。その変化させる力は、今まで変えることのできなかった巨大な一枚岩の如き傲岸不遜な現実を、塩の柱の如く瓦解させることが出来ると夢想すること。つまり、ネットそのものの力を過信するのではなく、あくまで希望するという力を持つこと。ジェフ・ライマンの『エア』は、この惨めな世界はきっと変えられる、という、暴虐で楽観的な凱歌に満ちた、ひとつの希望についての物語だったのではないだろうか。


夢の終わりに… (夢の文学館)

夢の終わりに… (夢の文学館)