ミラクル7号 (監督:チャウ・シンチー 2008年香港映画)

少林サッカー』『カンフー・ハッスル』のチャウ・シンチーが監督・脚本・製作・主演を兼ねた新作SFファンタジー映画なんですがね。お話は超ド貧民でDOKATAのヤモメ親父ティー(チャウ・シンチー)が、小学生の息子ディッキー(シュー・チャオ)にはいい教育を受けさせたいと、私立学校に通わせるんですが、ビンボーの臭いは誰にもすぐ気が付くらしくて、ディッキーはいつも苛められていたんですね。そんなある日いつものようにゴミ漁りしていたティーは不思議な物体を見つけるんですよ。この物体こそが宇宙からやって来た不思議生物ミラクル7号、通称ナナちゃん。ディッキーはナナちゃんの持つ超能力で学校生活をバラ色に変えようとするが!?というもの。

いやー、なんかムクムクフワフワしたオ○ナコ○モ(差別用語)向けのあざとい造型をした”ナナちゃん”で既に「オレの観る映画じゃねえよな」と思ってたし、貧乏をはねのけ明るく生きる親子の情愛、なんていうのもはっきり言ってオレの趣味じゃなかったんですが、あのチャウ・シンチーが監督・主演ですよ?そうは言ってもなんか凄い事やってくれてるんじゃないか、と思っちゃうじゃないですか。そんな訳で不安要素は十分ありながら観に行ったんですが。そしたらアアタ、これが不安的中で、善意と真心と信じる力と愛と感動のショーも無い映画に仕上がっていましたよ。トホホ…。

いや、ビンボーだけれど正しく生きる、というのは素晴らしいとは思うんですよ。正しく生きる、というただそれだけのことでさえ、本当は死に物狂いでやらなけりゃあ成し遂げられないのものなんですよ。正しい、というのは覚悟がいることなんですよ。ただそこに、《ミラクル7号》というオールマイティーな奇跡を持ち出しちゃうと、結局なし崩しになっちゃうと思うんですよ。勿論、《ミラクル7号》は全てを与える万能機械ではないし、むしろへっぽこで役に立たなかったりするんですが、やっぱりちょっとずるいよなあ、と思っちゃいましたよ。

この映画は実は『E.T.』のパロディらしいんですが、まあ言ってしまうと『E.T.』も気持ち悪い映画でしたよねえ。よく観ていると気付くと思うんですが、あの映画、終盤までE.T.は子供にしか見えてないんですよ。つまり、E.T.というのは子供の作り上げた幻想であり妄想でしかなかった、ということも出来るわけで、そう考えると、幻想なり妄想しか友達に出来ない子供時代、というとても孤独なお話だったって事に気付くんですよね。決して愛とか友情の物語ではないんですよ。むしろ現実における愛と友情の無さ、についての映画であるという、怖いし寂しいお話だったりするんですよね。

あと思い出したのはマンガの『ドラえもん』ですね。あれってバカでダメでグズのくせに見栄だけは一丁前に張るのび太というガキが、その歪んだ妄想から生み出したコンプレックス・マシン《DORAE-MON》の力により、現実世界を自分にだけ都合の良いように作り変えてゆく、というクローネンバーグも真っ青の暗黒ホラーですよね(違うって)。でも『ドラえもん』がまだましなのは、世の中そんなうまく行くわきゃねーだろーがこのボケカスタコ!という、すっかりひねてしまった大人独特のいやらしい教条主義が根底にあるからなんですよね(ホントかよ)。

そういう意味で言うと、この映画における《ミラクル7号》の存在は、ビンボーをこじらせすぎた親子の、寂しい幻想だっていう言い方も出来るんですよ。いや、辛い現実を幻想で紛わせるのは何も悪いことではないんですよ。幻想とはそのためにあるものなんですから。ただ、この映画は、幻想をあまりにも無批判に評価しすぎていると思うし、むしろ、幻想は幻想でしかないということにさえ気付いていないような能天気さを感じるんですよねえ。

それにしても、チャウ・シンチーはなんでこんな映画撮っちゃったんだろうなあ。今まで不遇でハングリーな生き方をしてきた人が、ちょっと大物になると善行の素晴らしさを説き始めるような、そんな底の浅さを感じてしまうんですよねえ。やっぱさあ、金持ちは嫌いだからみんな滅んでしまえ!とか、金だけが善だからビンボー人はみんな死んでしまえ!とかいった、極端な事を言ってくれたほうが、まだ信用できるんだけれどなあ。

■映画『ミラクル7号』予告編