怖い絵 2 / 中野京子

怖い絵2

怖い絵2

タイトルはホラー小説みたいだし、帯の惹句には「名画にまつわる血も凍る秘話の数々」なんてことが書かれていますが、この本はれっきとした美術評論書なんです。そしてまた、扱われる絵画も、見るからに不気味な”怖い絵”ばかりではなく、一見何気ない肖像画や一般的に美しい名画とされている作品のその背景を掘り下げ、その絵が描かれた時代の社会や風俗を浮き彫りにして、あまり知られていないヨーロッパの歴史の一端、そしてその裏の部分を知ることが出来る、という本でもあるんです。著者の中野京子氏は西洋文化史の大学講師ということで、美術史の観点というよりも、一枚の絵から西洋文化史を切り取るという試みをしたのがこの本である、ということなのでしょう。

そしてその切り口が”怖い絵”という観点にあるところに、敷居の低さと間口の広い美術評論を可能にしたということが出来るのではないかと思います。つまり、”ありがたい立派な西洋美術”を「怖い絵」「名画にまつわる血も凍る秘話の数々」などとある種下世話に論ずることで、”ありがたい立派な西洋美術”なんて実の所どうでもいいオレのようなものでさえも興味深く読んじゃうんですね。実際西洋美術の殆どは”ありがたい”ものでも”立派”なものでもなく、その時代の貴族・有力者・宗教団体などの特権階級が、お家事情や権力・財力誇示で描かせた自己顕示的なものに過ぎなかったりするわけですから。

オレは下賎な生い立ちと生粋の貧乏性をこじらせすぎたせいか、「芸術」とか「アート」とかいうものを手放しに賞賛するのが居心地悪かったりするんです。そこにどうしてもブルジョア趣味を見てしまうからでしょう。まあ綺麗なものは綺麗だし、想像力を刺激されることもありますが、どうも人間がベタなんで、それらを得意げに語ることに、なんだか口幅ったいものを感じてしまうんですね。卑屈な言い方をするなら、芸術なんて裕福なパトロンが付いてナンボのものでしかないとさえ思っています。純粋芸術という言い方は嫌らしいと思うし、ゴッホのような天才的才能を持ちながら後世まで認められず経済的な貧困にあった芸術家でさえ、そりゃマーケティング間違ってたからだろ、みたいな見方をしてしまいますね。

しかし経済的な理由で創作されたものだからといって、それで作品を賤しめたいわけではなく、むしろそれが人間の健全な行為なのではないかと思いますよ。経済的な理由があるからこそ切磋琢磨し、技術やセンスを磨いて完成度の高い作品を製作し、出資者が満足出来るものを提出する。芸術というのは案外そういうものなのではないですか。逆に言えば、だからこそ、「芸術」なり「アート」なりを高尚で御大層なものだとして過剰に持ち上げたくないし、教養主義的でスノビッシュな接し方にはどことなく嫌悪を感じるんです。

さて話を本のほうへ戻すと、この『怖い絵 2』は2007年に刊行された『怖い絵』の第2弾となります。『怖い絵』についてはオレの日記のここらへんで紹介していますが、なにしろドガの名作《エトワール、または舞台の踊り子》を「女衒と娼婦を描いた絵である」と看破したその大胆さに驚きました。それと同時に、解題される絵のそれぞれが、表題通り妖しく、そして恐ろしい作品が目白押しだったんです。この『2』でも前作同様、20作の絵画作品が『怖い絵』として解題されており、よく知っているはずの絵の裏に隠された史実や宗教的意味合いを知ることが出来ます。中にはピカソ『泣く女』やエッシャー『相対性』など、強引に『怖い絵』に結び付けてしまった絵画なども数点ありますが、そこは著者のサービス精神だと思って受け取るほうが楽しいでしょう。

その中でもやはりこれは怖いな、と思ったのはカレーニョ・デ・ミランダの『カルロス二世』。当時空前の繁栄を誇ったスペイン・ハプスブルグ家が、王権神授説を真に受け血族結婚を繰り返した末に生まれた遺伝病の世継ぎの、その生白く精気の失せた薄気味悪い肖像画は、当家の最後の血筋であったという史実も合わせて、実に暗い輝きを持った絵として見ることが出来るんです。このたった一枚の絵に、かつては世界をも制しようとしたスペイン帝国の、栄光と没落の185年の歴史が凝縮されていたといっても過言ではないのではないでしょうか。

そしてもう一枚はブリューゲルの『ベツレヘムの嬰児虐殺』。一見するとのどかな村を軍隊が意味も無く蹂躙している絵なのですが、この絵は生誕したばかりのイエス・キリストを抹殺する為、ヘロデ王ベツレヘム近郊にある村の全ての3歳以下の男児の虐殺を命じた、という聖書マタイ伝にあるエピソードを題にとって描かれたものなのですね。このようなエピソードを知らなかったので、それ自体もかなりショッキングだったのですが、この絵が後に改ざんされ、虐殺されている嬰児の姿が全て消されている、という事実にも慄然とさせられました。