ハンティング・パーティー (監督:リチャード・シェパード 2007年アメリカ映画)

戦場リポーターのサイモン(リチャード・ギア)とカメラマンのダック(テレンス・ハワード)は、命知らずの戦地取材で注目を浴びる名タッグだった。しかしサイモンはボスニアの紛争地をリポート中、そのあまりの惨たらしさがTVの向こう側に伝わらないもどかしさから生放送中にブチ切れ、そのキャリアを失う事となる。一方、ダックは功績を買われアメリカ国内でTVのチーフカメラマンに抜擢されるほど出世していた。それから5年後、ボスニア紛争終結記念式典を取材する為サラエボを訪れたタッグは、行方不明になっていたはずのサイモンと再会する。落ちぶれ果てた姿のサイモンはタッグにこう呟く、「物凄いスクープネタがあるんだ」。それは、500万ドルの報奨金を掛けられ、さらに国連NATOやCIAが追っているにもかかわらず未だ所在が掴めない、重要戦争犯罪人フォックスの潜伏先の情報だった。

戦場カメラマンとか戦場リポートって、スゲエなあ立派だなあとは思いますが、なんもそこまでして危ないことしてくれって頼んでないけどなあ、とも同時に思っちゃうんですよねえ。ジャーナリズムの重要性とかうんたらかんたら理屈はあるのでしょうが、煎じ詰めるなら危険なことに直面するのが好きで好きで堪んないんだよ!というのが、案外彼らの本心なんじゃないのか?なんてうがった考えかたをしてしまいます。この映画のサイモンとダックも、大義や名目なんかより、命を危険に晒しながら戦地を駆け回ることにアドレナリン出まくりの無上の喜びを覚える連中として描かれるんですが、意外と実際の戦場カメラマンもこれと同じような部分を持っているんではないのかしらん?なんて不謹慎に思うオレなんですがね。

戦場カメラマンに「危険を感じないのか?恐怖は無いのか?」と問いかけたところ、カメラのファインダー越しに世界を眺めていると、自分が無敵になったように感じる、だから危険も恐怖も感じない、みたいなことを言っていたような記憶があります。きっとその時、カメラマンは肉体を超越した”視線”だけの存在となるのでしょう。カメラやビデオで映像を撮る、という行為には、そのような魔物の如きものが潜んでいる、ということなのかもしれません。素人でさえカメラを手に取らせたら案外傍若無人に振舞ったりするものではないですか?

飢饉に苦しむスーダンで、今しも餓死しようとする少女をハゲワシが狙う映像を写真に収め、ピューリッツァ賞を受賞したケビン・カーターというフォトジャーナリストがいたんですが、彼はその後「シャッターを押す前になぜ少女を助けようとしなかった」と世間から強い批判を浴び、それを苦にして自殺しちゃう、なんてことが昔あったんですね。これはよく「ジャーナリズムか倫理か」といった一つの試金石として議論されることがあるのだそうですが、オレに言わせるなら「んなもん人間なんてファインダー覗いたらシャッター押しちゃうように出来てる生き物なんだよ!」ということでしかないような気がするんですよ。まして写真を撮って身を立ててるような人間は、一般人よりも強烈に”撮影する”という行為にデモーニッシュな喜びを持っているはずなんですよね。だからそこで報道だの倫理だのの言葉を持ち出す以前に、人間の”見る(観る)”という行為の根源的な理由を掘り下げないと、全てはナイーブなだけの取って付けたような理屈にしかならないと思うんですが、どうざんしょ。

さて映画は、最初金の為だけに戦争犯罪人フォックスを追っていたようにみえたサイモンが、実はボスニア紛争中自分の恋人をナニされたという苦悩があってそれで…などと正義に目覚める動機が語られたりするんですが、”動機としての悲惨なトラウマ”という映画的文法が結構どうでもいいオレとしては、そこよりも”国連NATOやCIAが5年も追っていたのに探し出せなかった戦争犯罪人を、たった3人の男が3日で見つけ、あまつさえ追い詰めてしまう”といった部分に面白さを感じましたね。さらに、”国連NATOやCIAが5年も追っていたのに探し出せなかった”その理由が、国際社会の大人の事情だったという描き方に苦い現実を感じました。とはいえ、この映画は決して暗く重苦しいガチガチの社会ドラマなんかではなく、すんごいスクープ見つけて一発当てようぜ!そしてついでに悪いヤツを懲らしめちゃおうぜ!と意気を上げる男達の、痛快な追跡劇として仕上がっています。戦争の傷跡がいまだ生々しい世界を、深刻ぶらずに軽快なテンポで描いてゆきますが、案外戦場ジャーナリストというのはこんな身の軽さ、腰の軽さを本分として生きている連中なのかもしれません。

ハンティング・パーティ劇場予告