生と死のドン・コスカレリ 〜『ファンタズム』と『プレスリーVSミイラ男』〜

プレスリーVSミイラ男 [DVD]

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ドン・コスカレリの『ファンタズム』と『プレスリーVSミイラ男』のDVDを続けて観たんですよ。

■映画『ファンタズム』

『ファンタズム』は1979年製作の映画で、少年が葬儀屋のオヤジや、空飛ぶ殺人球や、スター・ウォーズに出てくるジャワズみたいな謎の小人に追い掛け回され、終いには異次元世界まで垣間見てしまう、という映画なんですが、ホラーというよりもどこか悪夢っぽいダーク・ファンタジー的な作品に仕上がっております。殺人銀球や死体の詰められた樽や、異次元世界への扉などのヴィジュアルが、どことなくサイバーな雰囲気で、よくあるようなホラー映画とは違ったテイストを醸し出しているんですな。異次元世界などはどこか遠い惑星の地のようにさえ見えました。
主人公が少年で、葬儀屋が怖い!怪しい!という所から物語が始まるわけですから、これは子供が持つ《死への恐怖》をイメージ化した映画だといってもいいでしょう。ただ面白いのは、この映画で描かれる”死後の世界”が、欧米では当たり前なキリスト教的な死生観と奇妙に断絶している所なんですな。死んだら小さな小人にされて、見知らぬ惑星で奴隷として使われる、なんて、キリスト教信者にとっては、日本人が考えるよりも不気味だし、訳が分からないものなんではないですか。

■ホラー映画とキリスト教

例えば同じホラーでも、『ゾンビ』という映画では、”死者の蘇り”というキリスト教的なモチーフを裏返しにして、それを”この世の地獄”にしてしまったという部分で、逆にキリスト教的な映画であるんですよ。その他のホラー映画でも、魂や霊の存在、埋葬や墓地などの扱いにやはり宗教観が見え隠れしますよね。スラッシャーホラーという、単にぶっ殺しているだけの映画にも、”神との契約”という概念が存在してるんです。キリスト教的に言うならば人は神と契約しますが、それはつまり神を介さずして人は人と契約しないということなんですよ。海外の法廷ドラマで証人が証言前に聖書に誓うのはこれだし、欧米が契約社会だと言われるのはそこに彼らの宗教観があるからなんです。これが欧米における個人主義の源流となるものなんだと思います。
そして、スラッシャー・ホラーにおけるジェイソンなりレザーフェイスは、なんだか分からない超越的な神/破壊者と契約したその代弁者、あるいは顕現として振舞う、というわけです。超越的なものと結びついている自己は、それ以外を排除しても毛ほども痒くないんです。だからあれほど無慈悲なんですね。即ちスラッシャー・ホラーの無慈悲さは個人主義社会のなれの果て、と言うことも出来るんです。ところがこの『ファンタズム』では死んだらSFになっちゃうんです。変なんですよ発想が。逆に言えばそこが受けた理由なんでしょう。
そして少年やその家族はその《死そのもの》と戦うのですが、当然《死》に勝てるものなどいないんです。だから物語はクライマックスで葬儀屋を負かせたように見えて、でもラストで少年は暗い穴ぐらへと引きずり込まれてしまうんです。そして勝てないからこそ延々戦っちゃうということが、その後も何作も続編が作られる理由の一つであるのでしょう。

■映画『プレスリーVSミイラ男』

さて『プレスリーVSミイラ男』は同じコスカレリ監督の2002年の作品です。自分がプレスリーだと思い込んでいる主人公と、ケネディ大統領だと思い込んでいる黒人が、老人ホームでエジプトミイラと戦う、という荒唐無稽な物語です。しかしこれは実は”老いる”ということの無情さと悲哀を巧みに描いた名作なんです。オレの日記のここらへんで大絶賛の記事が書かれているのであなたは読むがいいんです。
ここでも描かれるのは《死そのもの》との戦いです。エジプトミイラは他でもない《死そのもの》を体現しているものなんです。そしてこのエジプトミイラは人の魂を食べて、それをウンコとして排泄してしまうんです!ここでもキリスト教的な死生観を逸脱しているのがお分かりでしょうか。なにしろ相手はエジプトですからねえ。魂がウンコになる。こんな怖いことは欧米人には無いでしょう。
さて、《死そのもの》との戦いには、この映画でもやはり勝てはしないんです。エジプトミイラを退散させたプレスリーJFKですが、最後はやっぱり死んでしまうんです。エジプトミイラに魂は食べられなかったとはいえ、それにより彼らの魂がキリスト教的な意味で守られたとはいえ、やはり《死そのもの》に打ち勝つ方法なんて何処にも無いんです。ではこの映画は『ファンタズム』と同じペシミスティックな映画なのでしょうか。

■《生》と《死》

プレスリー(と思い込んでいる男)とJFK(と思い込んでいる男)は、エジプトミイラ=《死》との最後の戦いに赴く時に、プレスリーは彼がかつてステージで活躍していた時代のキンキラキンの衣装を、そしてJFKは大統領らしいカチッとしたスーツに身を包んで出かけます。エジプトミイラと戦うキンキラキンのエルビスとスーツ姿のJFK。画面だけ観るならこれはどこもまでも滑稽なシーンです。しかしこういう見方もできます。彼らは、《死》に相対する時に、彼らが(それが妄想であろうとなかろうと)その人生で最も誇り高かった時代のコスチュームで臨んだのです。つまりそれは《生》の《尊厳》ということです。
《死》には決して勝てはしない。しかし、人であるならば、それに《尊厳》でもって臨みたい。『ファンタズム』が闇雲に《死》は怖い、《死》はイヤだ、と言っていたのはそれが少年が主人公だったからです。翻って『プレスリーVSミイラ男』の主人公達は老人です。《死》は必ずやってくることを彼らは知っている。そしてそのとき、《尊厳》でもって《死》と対峙したい。勝ち負けではなく、その《尊厳》こそが、《生》というものの証なのだ。映画『プレスリーVSミイラ男』は、《死》の恐怖を描く『ファンタズム』から一歩踏み出し、《生》の《尊厳》のあり方を描いた映画だったのだと思います。